改めて観たボヘミアン・ラプソディ

数日前によく行く映画館の上映スケジュールを調べて、その映画を見つけた。
ボヘミアン・ラプソディ。
字幕で、IMAX。
もう一度、観たいと思った。観たいというより、観に行かなくちゃ。
8回目だか、9回目だか、もうわからなくなったけれど、劇場で観られるなら、もう一度、行きたくてたまらなくなった。
その数日前に、母がサントラを聞きながら、ああだったこうだったとボラプを思い出して話していたところだった。
せっかくDVDを買ったんだから観たいね、と。

映画などのDVDを買うこともあるが、家ではなかなか観る機会がない。
これまで私が家にいる時間が短かったというのもあるし、闘病生活に入ってからは体力がないというのもあるし、テレビはひっきりなしに両親が観る番組が決まっているので、その合間を縫って映画なりなんなりを観る隙間を見つけることが難しい。
自室のテレビはゲーム用のモニターと化しているし、たった1時間も自室にこもることが難しいことがしばしばある。
なにかと、家では一つのことに没頭する時間を作ることが難しい。

駅ピアノというNHKの番組がある。
ちょうど、グラスゴーで撮影した回の、たぶん、再放送。
母が、誰か弾くかしら、と言うだけで、なんのことかわかった。
場所が場所だけに、QUEENの曲を誰か弾かないかなぁと、母は期待したのだ。
それで、映画に観に行かないかと誘ったら、両親は最初はCovid-19がまだ収束していない中で人の集まる場所に行くことに難色を示した。
が、チケットの売れ行き状況を見せたところ、これならいいかと行こう行こうと、話がすぐに決まったのだった。
駅ピアノのなかで、母が一番好きな曲、Love of My Lifeを弾いた人がいたことも、いくらか背中を押したような気がする。

最初に観たのは、一昨年の11月9日ぐらいだった。
最初のファンファーレから、わくわくしたり、どきどきしたり、にこにこしたり。
ここで誰が出ている、あそこで金閣寺のお札とか、あちらこちらが気になって仕方がない。
IMAXだと、猫が喉を鳴らす音がはっきりと聞こえるところが、またいい。
こうだった、ああだったと思い出しながら観るので、一足先に笑ってしまう場面があったり。
それでも、「コーヒーマシンはよせ!」のところでは、周囲からも笑いが聞こえて、にやりとした。

Covid-19対策として、一席おきに座ることになっており、両側には誰もいない。
それがまた、映画に没入しやすい環境を作ってくれている気がした。
特にライブの場面では、没入できるから臨場感が増し、臨場感があるから没入できる。
マディソン・スクエア・ガーデンのWe Will Rock You。足を踏み鳴らす音が、胸や腹に響く感じがたまらなく好きだ。
こうやって、QUEENの音楽が空間を満たす音量で聴くことができることが、すごく嬉しい。

だが、2年前とは決定的に違っていることがあった。
それは、私が腫瘍の再々発により、3度目となる手術や抗がん剤治療を経て、今なお、闘病していることだ。
この病は治らないとはっきりと自覚させられ、仕事に復帰するもフルタイムでは働けず、一日中、横になっているほか過ごせないこともある。
Covid-19には感染すればハイリスクであることを自覚しながら過ごしてきた。
2年前よりも、私自身の死を意識させられることが増えた。
その自分に、フレディがブライアン達に自分はHIVに感染していると伝えるシーンが、思いがけず強烈に響いた。

フレディ「騒ぎ立てたり心配したりしないでくれ。何より最悪なのは同情して俺を退屈にすることだ。そんなのただの時間の無駄だ。残された時間は音楽を生み出すことに使うんだ。俺にはなにかの犠牲者になる時間なんてない。エイズのポスターになったりとか、教訓話に使われたりする時間なんてない。俺が何者かは自分で決める。俺は生まれつきのパフォーマーだ。人々が求めるものを与えるんだ。天国を味わわせるのさ。それが、フレディ・ファッキン・マーキューリーだ」
Freddie Mercury: If any of you fuss about it or frown about it, or worst of all, if you bore me with your sympathy, that's just seconds wasted. Seconds that could be used making music, which is all I want to do with the time I have left. I don't have time to be anybody's victim, AIDS poster boy or cautionary tale. No, I decide who I am. I'm going to be what I was born to be: a performer that gives the people what they want: a touch of the heavens! Freddie fucking Mercury.

残された時間でやりたいこと。
私はなにをやりたいだろう。
問うまでもなく、私はやはり仕事がしたい。
その仕事が今、思うようにできないことが、私はつらい。
悔しい。

フレディが前向きに聞こえる言葉を言う、その背後の死への恐怖や、自分の死が見えることを認める勇気や、闘病の苦しみを思った。
ただただ、つらい。そのつらさに圧倒されながら、レミ・マレックの演じるフレディの透明感のある微笑に、涙が止まらなくなった。
あの場面、フレディの向かって左側から光がさすため、画面の右側は暗い。
右側は未来のほうなんだよなぁと思うと、その画面が、フレディの未来がもうすぐ閉ざされることを強調しており、なんかもう無理…と、涙腺が決壊したように思う。

レイ・フォスターに、フレディは『オペラ座の夜』の構想を語る中で、誰もがこれは自分のことだと思うだろうと言う場面があるが、この映画もまた、誰もが自分の物語だと思うような断片が散りばめられている。
メアリーの「いつも私ってこうね」とI love you, but...と恋人に振られてきた話であるとか。
フレディと父親の葛藤。ホームパーティで母親が古いアルバムを出してくる悪夢のような瞬間であるとか。
周りが敵ばかりに感じる瞬間や、なにもしていない時間が呼び起こす不安、心身をむしばむほどの孤独は、なにも、フレディのような有名人でなくとも体験することがある。特に、思春期にあっては、誰もが大なり小なり通る道であるかもしれない。
そんな風に我が身に重ね合わせられる要素があることが、この映画が愛された理由の一つではないかと思う。

もちろん、音楽は素晴らしいし、もともと,QUEENは好きだったのだけれど。
何度も観たはずの、よくわかっているはずの場面で、こんなに揺さぶられるとは思わなかった。
その場面までに没入するように鑑賞していたからこそ、私のあらゆる防衛を突破して、無防備になっていたこころにダイレクトに響いてきたのだと思う。

自分が何者かは自分で決める。
それなら、私はやはり治療者になりたいと思う。ありたいと思う。

もう2-3回、観ておきたいな。。。

(写真は、季節の花のアガパンサス。kazuyoteradaさんがアップされているものをお借りしました)

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