怪物が息を止める。

怪物が息を止める。

 電車に乗ることもある。言うまでもなく病院へ行くためである。車内の蛍光灯の強さにやられる。オフピークなので空いている車内にサラリーマンの声色が綺麗に響く。私はサングラスをかけてイヤホンを付けた。いつまで経っても荷物を減らすことができない。必要な薬が多いからだ。私が持っている荷物はほとんど薬だといってもいいのではないだろか。私は薬漬けのリュックサックを背負っている。
 その日は雨で、急激な気圧の変化に頭痛を抱えている人々は嘆いていた。あるいは呆れていた。私は災難だと思う。インターネットの強い光で人類が自然から遠ざかっていることを感覚過敏の主な原因だと思う時、狂気の神経質でなければ完成することもなかったであろう多くの芸術が迫ってくる。全く違う時代を生きたあなたに私と似たような悩みや病気を感じる時、今この瞬間にもそうである仲間の存在への空想が現れる。私はもはや頭痛の原因が低気圧であるのか判断することも困難で、しかしながら人類共通の話題が天候で苦しむ痛みであることに安堵している。初対面の人間と天気について話すことはなんてこともない時間である。私は痛みの話がしたい。それが天気によってなんてこともない痛みの話になることは、痛みの強さに対してあまりにも微々たる希望ながらも、そこそこ面白い抵抗の術だと思う。
 冬の疑いが晴れ、春の確信から暑苦しい梅雨はあっという間に立ち込める。梅雨が暑苦しくなければ...私は体温調節も苦手な体質だ。
 ところでさっき乗り込んだ電車の空調は終わっていた。私はかすかな吐き気を押し殺しながら窓の外を眺めていた。気づけば車内の座席は全て埋まっていた。私が耳に入れたイヤホンからは何の音も出ていなかった。
 私は重い病気によって感覚が狂い、人々は厳しい社会によって感覚を飼い慣らされている。
 電車が駅に停車している時間はなんと居心地がいいのだろう。痛みではなく時間に追いかけられる人々には理解してもらえそうもない。それでも理解されるために書く文章より冷静に叫ぶような気持ちの整理が重要なのだと思う。私は今すぐにでも眠ってしまいたいのだよ、と。眩しすぎる朝日が見られるように。寝ていれば時間は過ぎる。私はより深く時間と向き合う必要がありそうだ。そのためにはより長く眠るべきだ。私はそれが永遠にでも構わない。薬と名付けた本を持って来てはいたが、移動中は眠ってしまう方がいい。
 私は逗子・葉山駅(旧新逗子駅)から泉岳寺駅の間にこの長ったらしく御託に溢れる文章を書き、今日もだいたい1時間の奴隷をやり過ごすことに成功した。
 電車を降りて地上に出ると高層ビルの隙間に素晴らしい曇り空があった。
 大自然の中で木から木へと移動する猿みたいにコーヒーチェーン店からコーヒーチェーン店へと歩く。同じ味のバナナを食べるように大して味の変わらないコーヒーを飲み続けている。私にとってその微々たる差は意識されている。たぶん猿だってそうだろう。ジャングルの頂点で食べるバナナとほとんど日差しの届かない地表で食べるバナナの味は違うだろう。高層ビルの屋上で弁当を食べる人々と地上1階の公園で弁当を食べる人々は全く違う世界を生きていると思う。
 1時間もあればこんなに遠くまで来れるのだ。散歩ばかりしている私は不思議に思う。
飛行機に乗ることもある。
あの3時間で進んだ距離。
あの3時間で伸ばした茎。
今日の天気は大嵐だった。

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