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空き家の子供 第7章 現在・冬(4)

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第7章 現在・冬(4)

 十二月に入ると、街には大勢の人が溢れた。夜の飲食店はどこもいっぱいで、私と彼は冷え込む夜の街を長いことさまよい歩いた。駅のガード下にある大衆居酒屋にようやく落ち着いた頃には、私の体は冷え切っていた。
「とりあえずビール」と彼、大塚は言った。
「この寒いのに?」と私は呆れた。
「聡子はお湯割りにする?」
「ううん、熱いウーロン茶で。ウーロンハイじゃなくて、ウーロン茶」
「なんだ、飲まないの?」
「酔っ払いたくないの」
 大塚は少し心配そうな目つきで私を見た。彼にだけは、私が現在置かれている異様な状況を話してあった。
 大塚は職場の同僚で、付き合っているという関係になって、もう一年ほどになる。基本的に人を信用することの少ない私にとっては珍しく、彼はリラックスできる人だった。
 狭い店内はごった返していた。外の寒さを締め出すように熱気がこもり、私の体は解凍されていった。音楽が流れ、大勢の賑やかな喋り声がうわんと反響し、更に時々頭上を電車が通って店全体が震動した。今の私にとっては、こんなうるさい店の方が話しやすかった。しんとしていたら、途中で恥ずかしくなってしまっただろう。
「今も眠れないの?」と彼が聞いた。
「そうね、あんまり。眠ってはいるけど、深くは眠れてない。すぐに嫌な夢を見てしまうから」
「嫌な夢って?」
「あの、空き家の中に閉じ込められる夢。真っ暗で、どこにも出口がなくて、黴臭くって……、そんな闇の中に閉じ込められて、永遠に出られない。そんな夢」
「実家の近所にあったっていう空き家だね。でも、そこはもうないんだろ?」
「うん。だから、夢なのよ」
 生ビールとウーロン茶、それに枝豆が運ばれてきたので、私たちは控えめに乾杯した。
「飲んで、リラックスした方が眠れるんじゃないの?」
「そうかもね。でも、家に帰るまでが怖いから」
「……地下鉄で死にかけたっていう、あの件か」
「そう。少なくとも家に帰るまでは気を張っていないと、何をされるかわからない」
 焼き鳥とだし巻き卵、シーザーサラダが運ばれてきた。
「まあ、食えよ」
 言って、大塚はビールを一気に半分くらい飲んだ。
 私は卵焼きを突っついた。食欲はない。寝不足のせいかストレスか、常に胃が痛んでいたし、頭も重かった。私は大きな溜め息を吐いた。
「どうした?」
「なんだかね。ただ付きまとわれてるだけでこんなに参っちゃうんだもの。これが、呪われてるってことなのかな」
「うーん、まあ、そうだな。呪いだなあ、それは」
 私は顔を上げた。
「何よ、慰めてくれるのかと思ったのに」
「いや、そのつもりだよ。そのつもりだけど……」
 大塚は焼き鳥に食らいつき、私の皿にも強引に一串置いた。
「まあ食えって。食わなきゃ勝てんよ」
「それはそうだけど」
「聡子が自分で言ったけど」大塚は言った。「その子供の幽霊は、別に直接的に襲いかかってくるって訳じゃないんだよな。駅でも、聡子が自分で落ちるように仕向けただけだ。聡子に声を聞かせたり姿をチラ見せしたり、怖がらせてストレスを溜めさせて、聡子が自滅するように仕向けてる。てことはさ、そいつに対抗するいちばんいい手段は、相手にしないことなんじゃないか?」
「無視しろってこと?」
「そう。無視されたら、向こうも何にもできないんじゃないか?」
 おでんと揚げ出し豆腐が運ばれてきた。大塚はビールを飲み干してお代わりを注文した。
「昔から疑問だったんだ。ホラー映画とか、見るたびに」大塚は言った。「突然現れてびっくりさせるのが幽霊の常套手段だけど、びっくりしなければどうなるのかなって。誰も怖がらなければ、出た幽霊もずいぶん間抜けじゃないか?」
「これは映画じゃないのよ。現実離れした話に聞こえることは、わかるけど」
「そうそう。映画じゃないからこそ、ジェイソンみたいに本当に殺すことなんてできないはずだ。幽霊による殺人事件なんて、ニュースで見たことないだろう?」
「でも、私は本当に死にかけたのよ?」
「わかるよ。でも、幽霊に背中を押された訳じゃない。そうだろう?」
 私は否定しなかった。
 大塚は熱いおでんを美味そうに食べ、私にも大根と厚揚げを取り分けてくれた。彼は善人だ。そして、基本的に楽天的な人物だ。いわゆる霊感なんてゼロだろう。そこが、私が彼といてリラックスできる、そのポイントでもあるのだけれど。
 空き家の子供に関しては、彼の言うことを間に受ける訳にはいかなかった。
 でもともかく、私は黙っていた。彼は機嫌よく話を続けた。
「誰もいないのに、子供の声が聞こえる。時々、女の子が立っているのが見える。それがどうした? 別に、ほっとけばいいじゃないか。気にするから、ストレスになる。寝不足になって、過敏になって、ますます幽霊を見てしまう。悪循環だ。疲れて、ふらついて、ホームから落ちそうになったりする」
「全部ストレスのせいだって言いたいの? 私の気のせいだと」
「それは何ていうか……卵が先か、ニワトリが先かみたいな話でさ。幽霊を見たからストレスが募るし、ストレスが募ると幽霊を見ちゃう、ってことじゃないかな」
「何よそれ。結局どういうこと?」
「いやあ……俺もよくわかんなくなってきた」
 いつの間に頼んだのか、焼酎のお湯割りがやってきた。私のウーロン茶のお代わりと、あん肝も一緒にやってきた。
「じゃあ、井戸は?」と私は言った。「あの時は、掴まれて引きずり込まれるところだった。それもストレスのせいだって言うの?」
「雨で、ぬかるんだ泥に足をとられてさ。慌ててバランスを崩して、井戸に落ちそうになって肝を冷やして、それはひどいストレス状況だと言えるだろ。引っ張られたと思い込んでしまうということも、あり得るんじゃないかな」
 私が黙ると、大塚は取り繕うように続けた。
「いや、俺が言ってるのは憶測でしかないよ。でも、そうとも解釈できるんじゃないか……って話でさ。幽霊がいるなんて思うより、そう考えた方が聡子も気が楽になるんじゃないかと思うんだ」
 私は長いため息を吐いた。
「やっぱり、あなたも私の気のせいだと思う訳ね。私がノイローゼだと。ありもしない幽霊の妄想を見ているだけだと、そう言いたいんだ」
「いや。俺も幽霊はいるんだと思うよ。聡子がそんなふうに、現に参ってしまうくらいなんだからさ。幽霊はいるんだ」
 私は顔を上げて大塚を見た。彼はお湯割りを啜りながら続けた。
「ただ、それがどこに存在してるか、っていうのが問題だと思うんだ。きみは、それがきみとは関係なしに、独立して存在してると言う。動物や植物みたいにね。俺は、それは疑わしいと思う」
「つまり、私の妄想だって言いたいんでしょ?」
「妄想っていうかね。幽霊は、きみの内側に存在しているんだと思う。外側じゃなくてね。きみの怖いという思い、その空き家に関する子供時代のトラウマ、その他のいろんなストレスが合わさった、きみの中の負の感情。それが形をとって投影されたものが、幽霊なんじゃないのかな。いわゆる幽霊って奴は、実のところそういうもんなんじゃないかと俺は思うんだ」
 反論するより先に、私は感心した。
「へえ。心理学者みたいね」
「別に根拠はない。ただ思いついたことを喋ってるだけだよ」
「結構もっともらしいわよ。でも、残念ながら正しいとは思えない」
「……そうか? どうして?」
「だって、私は知ってるんだもの。幽霊が本当にいることを」
 頭上を電車が通り過ぎて、轟音と共に店が僅かに揺れた。学生らしい団体が大声でクリスマスソングを歌い出した。高まる熱気の中で私は、奇妙な冷たさを感じていた。
 大塚はお湯割りをぐびぐびと飲んだ。彼の顔はもうずいぶん赤くなっていた。
「子供時代の話か? 空き家に忍び込んで、幽霊を見たっていう」
「そうよ」
「それこそが、きみの想像なんじゃないか?」と大塚は言った。「いや、ちょっと怒らないで聞いてくれ。きみはその頃、十一歳だろう? 多感な時代のきみの心が、空き家の雰囲気に当てられて考え出した想像のお話、ってことはないか? 子供は、想像のお話をありありと思い描くもんだよ」
「そんなのあり得ない。想像と、本当に見たものの区別くらいつくわよ」
「どうだろうか? 十五年も前のことだろう。想像して思い描いただけのことを、本当のことだったかのように間違って記憶してしまってる……なんてことはないか?」
 私は呆れた。大塚が現実主義者であることはわかっていたが、これほどとは思わなかった。
「それに、きみは絵を描いていたんだろう? 芸術家は想像力が豊かなもんだよ。時に想像力が暴走することも、あったかもしれない」
「小学生よ。芸術家なんてもんじゃないわよ」私は言った。「それに、それだけじゃないの。十五年前に空き家で起きたのは、それだけじゃないのよ」
「もっと決定的な出来事があったのか? 幽霊の存在を否定できなくなるような?」
「そうよ」
「その、慶太という男の子に、恨まれるきっかけになったという出来事?」
「そう」
「何があったんだ?」
 私は俯いた。汗をかいているウーロン茶のコップを見つめる。
「それは言えない? 言いたくない?」
 私は頷いた。
 大塚は溜め息を吐いた。残った焼酎を飲み干して、私をじっと見た。
「きみの問題は」彼は言った。「現在よりむしろ、過去にあるんじゃないのかな。その十五年前の出来事を直視できないことが、現在に現れている異変の原因だとは言えないだろうか?」
「心理学者みたいな物言いはやめて」私は言った。「あなたに話したのは、現在の問題について、相談に乗って欲しかったからよ。過去についてのカウンセリングを受けたかった訳じゃない」
「そうだな。ごめん」
 彼は素直に謝った。
 会話が途切れた。少し気まずい雰囲気が、二人の間に漂った。
「ところでさ」
 大塚は声のトーンを変えて言った。
「きみは子供の頃はずいぶん絵を描くのが好きだったみたいだな。今でも描いてるの?」
「描いてない」と私は即座に言った。
 せっかく変えた話題を挫かれて、彼は困った顔を見せた。
「……そうなの?」
「絵なんて、一切描いてない」
 答えながら、私は思った。そう、五年生の聡子は、絵を描くことが大好きだったのだ。
 携帯電話の振動音が聞こえた。私は鞄から電話を出し、着信を確かめた。
「母からだ」と私は言った。彼が無言で頷く。緊張が走った。
 うるさい店の中では、母の声はほとんど聞こえなかった。私は電話を持って店の外に走った。ガード下の暗がりに駆けて行って、ようやく会話が通じた。
「あんたどこにいるの? こんな遅くに」と母が言った。
「晩ごはんだよ。そんな遅くないって。なに?」
 祖母が危篤だという連絡だった。
 しばらくして電話を切ると、大塚が荷物を持って店を出てきた。察して、勘定を済ませて出てきたらしい。話を聞くと、彼は通りに出てタクシーを停めてくれた。
 私がタクシーに乗り込むと、大塚は身を乗り出した。
「俺も一緒に行くよ」
「駄目よ。臨終の席で紹介なんてできないわよ。それに、酒臭いし」
「そうだな。それじゃあ。なあ、気をしっかりな」
「わかった。ありがとう」
 タクシーが走り出した。彼は舗道に立って、しばらく見送ってくれていた。

 タクシーの後部座席で、流れていく夜の街を眺めながら、私は大塚の言ったことについて考えていた。
 基本的に、彼には何もわかっていない。もっともらしく彼が語った、心理学的な解釈なんてみんな的外れだ。あの子が、実在していないという前提で弄ぶ解釈なんてみんな的外れなのだ。あの子は、確実に存在しているのだから。
 まあ、やむを得ないことではある。私は彼に、核心的な出来事について話していないから。
 十五年前の夏、あの空き家で、最終的に起きた出来事。彼にはまだ話していないし、これからも話すつもりはない。話せない。
 私は、慶太の顔を思い出した。憎々しげに私を見つめ、「捕まればよかったのに」と吐き捨てるように言った慶太。
 もし話したら、大塚も慶太のようになってしまうだろう。
 それでも……と私は思った。彼の話の前半に関しては、まともに受け取ってもいいのかもしれない。
 無視すればいいんじゃないか、という指摘に関してだ。
 空き家から解き放たれた今、空き家の子供はどこにでも現れることができるらしい。駅や、病院や、あらゆる場所であの子の気配を感じる。常に監視されているようで、私の精神は参ってしまう。
 だが逆に考えれば、子供にできるのはそれだけのことなのだ。何か超自然的な力で、私を呪い殺すことはできない。できるなら、もうとっくに私は殺されているだろう。
 もしそうなら、私にできることは明白だ。井戸に近づかなければいいのだ。電車を待つ時に、ホームの端に立たなければいい。危険な場所に近づかないよう注意して、必要以上に恐れすぎなければ、きっと攻撃を凌ぎ切ることができるだろう。
 私は窓に寄り掛かり、夜の街を眺めた。負けるもんか、と私は思った。あの子にできるのは、子供のいたずら程度のことでしかない。なら、戦ってやる。私はもう大人になっていて、幽霊の脅かしにびくつく子供ではないんだから。
 唯一恐れなくてはいけないのは、十五年前、最後に起こったあの出来事。話せないあの出来事だけだ。
 だが、私には有利な点がある。十五年前の出来事を、知っているという点だ。前みたいに、不意打ちはできない。同じ罠にははまらない自信があった。
 それに、大きな違いもある。空き家が今はもうないってことだ。空き家は子供を閉じ込める檻だったが、同時に子供に強い力を与えてもいた。あの闇はもうない。空き家の子供は、闇から力を得ることはもうできないだろう。
 本当は、空き家がなくてはあの子も存在できないはずだ。いずれ力を使い切れば、あの子は消えてしまうだろう。それまでなんとか乗り切ればいい。それがいつのことかは、わからないが。
 どこまで的を射ているかはわからないが、方針が見えたことで、私はずいぶん楽になった。むしろ闘志が湧いてきた。座席に手を置くと、鞄に付けていたお守りに手が触れた。ずっとしまってあったのを思い出して取り出して、持ち歩くことにしたお守りだ。
 実家近くの神社の名前が書かれた、赤いお守り。そっとそれに触れながら、私は窓に寄りかかって目を閉じた。

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#創作大賞2024 #ホラー小説部門


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