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空き家の子供 第5章 現在・冬(3)

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第5章 現在・冬(3)

 祖母が入院した。十一月の終わりに近い日曜日、私は病院に出かけていった。
 病院へ向かう途中の地下鉄の駅で、私は子供の声を聞いた。私を遊びに誘う声。あの日以来、私は度々その声を聞くようになっていた。
 いーれーてー……
 あーそーぼー……
 ひと気の少ない日曜の午後のホームに、どこからか声が聞こえてくる。周りを見ると、列車を待つ乗客は誰も聞こえていないようだ。平然と、本を読んだりスマホをいじっている。
 どうやら声が聞こえるのは、私だけのようだ。そういえば、慶太も何も気づいていない口ぶりだった。
 私を遊びに誘う声。その声の主である、空き家の子供。空き家から出ることは、できないと思っていた。だから、空き家の敷地の中に自分から入って行ったりしない限り、安全だと。だが、長い年月を経て遂に空き家が取り壊され、子供を閉じ込めていた結界もなくなってしまったようだ。
 空き家と一緒に、消えてしまうと思っていたのに。失われるどころか、解き放たれてしまった。
 そしてあの空き家の周りではなく、私の後についてきている。あの子が狙っているのは私だけ。私ただ一人だ。
 ホームのどこかから、声が聞こえてくる。あるいは、地下鉄のトンネルから聞こえてくるのか。
 トンネルから低い唸り声が湧き上がってくる……風が吹いて、轟音と共に列車がやってきた。ただの列車の音だ、声じゃない。私は列車に乗り込んだ。
 ずっと声に付きまとわれて、私は過敏になっていた。あらゆる音が、声に聞こえる。地下鉄の座席に座り、暗い窓に映った車内の光景を見ると、私が座っている長いシートのいちばん端に、あの子が座っているのが見える。窓ガラス越しに目が合って、ニヤリと私に笑いかける。はっとして横を見ると、誰もいない。ただ空いているシートがあるだけだ。また前に向き直って窓を見ると、映っていた子供の姿も消えている。
 消えてしまった後になってみると、本当にその姿を見たのか、それともただの思い過ごしだったのか、区別がつかなくなってしまう。考えるときりがなく、私は疲れていた。
 あの子は家の中には入ってこられない。私が入れてやらない限りは。だから、家の中にいる限りは安全であるはずだった。それでも、私の眠りは浅くなった。何度も嫌な夢を見ては、真夜中に起きることを繰り返した。黴臭い暗闇に囚われて、そこから出られないでもがく夢。
 地下鉄の心地よい振動に揺られ、座席に背を預けていると、やがて私の瞼は降りていった……今は眠るべきではないと、わかっていたけれど。
 あそぼう。
 耳元で声がした。息が、私の耳にかかった。ぞわっと、耳のあたりの毛が逆立った。ひんやりとした冷気と、黴臭い匂いを嗅いだ。小さな冷たい手が、私の肘に触れて引っ張った。
 私は目を開けた。ピクンと反応して上体を起こし、気配を感じた隣を手で払った。手は虚しく空を切った。誰もいない。私は座席に一人きりだった。
 ほんの一瞬で夢を見たのか、それとも何かがそこにいたのか。わからなかった。
 向かいの座席に座っていた女性が、私の様子に訝しげな視線を送り、そして目を逸らした。
 繰り返される緊張の連続で、私は疲れ切っていた。

 日当たりのいい病棟の最上階に近い部屋で、祖母はベッドに横たわっていた。口元には酸素吸入のマスクがつけられ、腕からは点滴のチューブと、心拍数や血圧を測るコードが伸びていた。ベッドの脇にはモニターが置かれて、時折耳触りな電子音を発していた。
 祖母が眠っていたので、私はほっとした。こんな状況で、何を話していいかわからない。私は冷蔵庫を開けて古いジュースや果物を処分し、隅に積まれていた着た後の寝間着を持って洗濯室へ向かった。
 祖母の洗濯物を持って、私は病院の長い廊下を歩いた。時折ある窓からは、街の風景が見下ろせた。よく晴れた穏やかな日だ。気温も上がって、寒さも一時後退して暖かな陽気に包まれていた。
 病院の中は暖房がよく効いていて、かえって頭がぼうっとするくらいだった。廊下は静かだったが、時々どこかの部屋から、苦しそうな呻きや痰の絡む音、激しい咳などが聞こえてきた。開いている扉の前を過ぎる時に中を覗くと、骨と皮のように痩せた老人が、ベッドに腰掛けたところだった。老人は私を見て、鋭い目でじろりと睨んだ。私は足を速めてそこを通り過ぎた。
 どこからか子供の声が聞こえてきて、私は緊張した。前方で交差する廊下を、兄弟らしい男の子二人が大騒ぎしながら走り抜けていく。その後を、ベビーカーを押した母親がたしなめながら追いかけていった。私は緊張を解いた。
 洗濯室に入って寝間着を洗濯機に入れ、コインを入れてスイッチを押した。狭い洗濯室に、機械の作動音が響く。乾燥室の熱気で気持ちが悪くなってきて、私は逃げるように洗濯室を出た。
 私は談話室に歩いていった。いくつかのテーブルと椅子が置かれ、給湯器や電子レンジ、雑誌などが置かれたスペースだ。洗濯が終わるまで一休みするつもりで、私は椅子に腰を下ろした。じきに、強烈な眠気がやってきた。
 浅い眠りの中で、私はいくつかの断片的な夢を見た。夢のうちの一つは、この談話室で、椅子に腰掛けて眠っている私自身の夢だった。夢の中では、あの子が眠る私の背後にぴったりと立って、深々とお辞儀をするように腰を曲げて、逆さまになった顔で私の寝顔を覗き込んでいるのだった。
 子供の声にハッとして、私は目を覚ました。見ると、さっきの兄弟とベビーカーの母親が、談話室に入って来たところだった。私は立ち上がって部屋を出た。
 洗濯室に戻ると、機械は止まっていた。私はじめっとした寝間着を洗濯機から取り出し、ストーブのついている乾燥室のハンガーに干していった。
 また長い廊下を歩いて、私は祖母の病室に戻った。
 戻ると、祖母は目を覚ましていた。酸素マスクを自分で外して、目を見開いて天井を眺めている。
 私は歩み寄って、酸素マスクを祖母の顔に戻してやった。
 祖母はのろのろと首を傾げて、私を見た。それから震える手を伸ばして、また自分でマスクを外してしまった。
「だめよ、おばあちゃん」と私は言った。「マスクはしておかなきゃ。気持ち悪いかもしれないけど、楽になるから」
「どちらさまですか?」
 いがらっぽい声で、祖母は言った。
 マスクを持ち上げた私の手が、止まった。
「聡子よ。覚えてるでしょ?」
 祖母はじっと私の顔を見つめ、「どちらさま」と繰り返した。
 私は黙ったまま酸素マスクを祖母の口に被せた。

 帰りの地下鉄のホームは、夕方の時間帯のせいか、来る時よりも混んでいた。停車位置を示すマークの上に立って、私は列車を待っていた。
 私はひどく消耗していた。あの子のせい、だけじゃない。末期患者に満ちた病棟の淀んだ空気が、私の生気を奪っていた。
 祖母は結局、一度も私を孫だと認識しなかった。看護士に対するのと同じ他人行儀な口を、私に対しては聞き続けた。
 やがて叔父と叔母が見舞いにやって来た。祖母は彼らのことは普通に覚えていた。マスクのせいで口調はたどたどしかったものの、意識ははっきりしているような話しぶりで、祖母は彼らと喋った。祖母は彼らに、家に帰りたいと訴えた。私と祖母との噛み合わない会話を聞かれるのが嫌で、私は叔父と叔母に祖母を任せてそそくさと病室を出てきた。
 列車の接近を知らせるチャイムが鳴った。また、トンネルから唸りと風が流れてくる。私は顔を上げて、何気なく向かいのホームを見た。向かいのホームの真正面の位置に、あの子がいた。こっちを見ていた。
 列車を待つ人たちが並んで立っている。多くはスマホをいじったり、新聞を読んだりしている。そんな乗客たちの向こう、壁に近い奥の方に、女の子の姿があった。普通の乗客の一人のようにも見えるが、そうじゃない。厚いコートを着込んだ冬の乗客たちの中で、彼女だけは夏から切り抜いてきたように見えた。互いに無関心を装う地下鉄の乗客の中で、彼女だけがまっすぐ私を見ていた。
 もっとよく見ようと、私が目を凝らした時に、列車が入ってきた。放送が流れ、流れる窓が横切って、女の子の姿は途切れ途切れになった。
 列車が止まりドアが開く。私は車両の向こうに気持ちを奪われていた。列車の中の人々や反対側のドアが邪魔をして、向かいのホームはよく見えない。気をとられながら、私は列車に乗り込もうと前に進んだ。その時に、誰かの「あぶない!」という声が響いた。
 はっとして、私は踏み出そうとした足を止めた。私の前に、列車はなかった。線路に落ちていきそうになるのをどうにか踏み止まると同時に、警笛が鳴り、列車のヘッドライトが真横から私を照らした。振り向くと、トンネルを出た地下鉄がたった今ホームに入ってくる。列車の到着を知らせるチャイムが鳴り続けている。光と轟音が、ぐんぐん迫ってくる。
 光に目が眩み、私の意識は一瞬フリーズした。向かってくる列車の巨大な鉄の塊が、ホームから身を乗り出した私の頭に激突するその寸前に、私は後ろに飛びのいた。私はホームに倒れ込み、固い点字タイルに腰をしたたかに打ち付けた。尻もちをついた私の前を、列車が右から左に流れていった。
「大丈夫ですか?」
 誰かが声をかけた。何人かの人たちが、私の手を取って助け起こしてくれた。どうにか立ち上がった私の前で、停車した列車のドアが開き、乗っていた人たちが降りてきた。私に手を貸してくれた人たちは、心配そうな表情を浮かべながらも列車に乗った。
 私は呆然としていた。寝不足のせいだろうか? ぼうっとしていて、来ていない列車が来ていると、思い込んでしまったんだろうか? 
 発車のチャイムが鳴り、私の前でドアが閉まった。列車に乗った人々は、突っ立ったままの私に訝しげな視線を向けていた。その向こう、反対側のドアの窓から見えている向かいのホームに、あの子が立って私を見ていた。あの子はニヤニヤと笑っていた……そのように見えたが、向かいのホームに列車が入り、目の前の列車も動き出して、見えなくなってしまった。
 私はショックを受けていた。ただ死にかけたことに対してではなく、あの子が私を殺そうとしたことに対して。あの子は、私を列車に轢かせようとした。つまり、もう私なんて要らないということだ。
 私と一緒に遊ぶのではなく。
 私を消し去ってしまおうとしている。
 列車が両方とも行ってしまって、ホームは静かになった。向かいのホームに、子供の姿はなかった。子供どころか誰の姿もなくて、私はがらんとしたホームに取り残されていた。

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