自己紹介という文化について
ご挨拶
私事ながら、note初投稿ということでご挨拶させていただきます。
お初にお目にかかります。一般人の「うぉーく」と申します。文章を書くことには不慣れで冗長な文章になることを先にご了承ください。とは言っても文章を読むことはそこそこにありまして、今ご覧になっている皆さんにも同じような方がいらっしゃるのではないでしょうか。
つまり、私たちは同じ群れの仲間であり、私がファーストペンギンということです。(厳密にはファーストではないという異議申し立ては却下させていただきます。)
何をするでもなく暇するにも飽きた時には是非お立ち寄りください。
自己紹介とは
ところで、タイトルにもある自己紹介という文化についてどのような印象をお持ちでしょうか。
私は正直、自己紹介は苦手です。
そもそも自己紹介とは、内観的な自己分析を交えた陰湿な印象操作である。
つまり私が言いたいことは、一人称的な紹介には価値がないということである。自己紹介の時点で二次情報であり、個人が相手に与えたい印象によって自己紹介の内容が変化することが往々にしてあり得る。
そんな風に相手の中にある私像に不躾に塗料を塗りたくる行為はむしろ不誠実なのではないかと思ってしまう。
散々な私見を述べてきたが、自己紹介の価値も理解しているつもりである。自己紹介というのは要するに会話の糸口を提供してくださいということに他ならない。
「初対面で何の話題で交流を図れるのか知りたいのでヒントをください。」ということである。これは聴く側の譲歩であり、ほとんど悪意はないと言える。
あなたと親密になりたい、もしくは気まずくなりたくないという意思表示なのである。
確かにこの場合、こちらとしてもそれなりの態度で答えるべく、差し障りのない模範的な自己紹介をしたいと思う。しかし、これは先攻が不利なゲームである。限りない選択肢の中から相手の興味を引く話題をヒットさせなければならない。もちろん無関心やマイナスのイメージを持った地雷を引き当てるリスクもある。
これに対して後攻がすることは共感の一点のみである。ほぼリスクもなく共通項を見つけることができる。
この構造こそが自己紹介の歪みである。
他己紹介の優位性
では他己紹介ならどうなのか。
初対面の人と会う時に共通の知人が加わり、3人の場になった時、明らかに空気が柔らかくなった経験があるのではないだろうか。これは他己紹介が自己紹介よりも優れているからである。他己紹介は三人称的な紹介であり、外的な評価が行われるためである。
社会心理学やマーケティングの世界で知られる「ウィンザー効果」というものがある。これは、ある事柄へ当事者自らが発信した情報よりも、他者を介した情報の方が信頼性を獲得しやすいとする心理効果や心理状態のことである。
心理効果というものは人間が生まれながら持っているものだが、進化の過程で獲得してきたのだろう。
つまりこのウィンザー効果は自己紹介に踊らされたヒトが遺伝子レベルで対策を積んだ結果と言っても過言ではない!(もちろん私見であるので、ここでも異議申し立ては却下させていただきます。)
恋愛漫画によくある、周りから固めるというのはあながち間違っていないのかもしれない。
自己紹介からは逃れられない
色々と屁理屈をこねてきたが、結局、人と関わり続ける限り、自己紹介から解放されることはないだろう。
しかし私が思うに自己紹介の内容は何でもいいが、それに対する反応が重要だと思う。
共通項が現れた場合には大いに共感し、知らないこと・興味のないことにはむしろ食いつき知ろうとする。これが最も重要である。
このように屁理屈は解決を導くものではない。屁理屈をガソリンに今日も特級の言い訳を走らせていきたいものだ。
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