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【短編小説】教師のお別れ

 高等部入学式前日の教室で新入生を迎え入れる準備をしていると、コンコンとドアをノックして先輩教師の絵美さんが入って来た。
「麻里ちゃん、おつかれ~。まだやってくの?」
「大体は終わってるんですが、一応明日からの新入生のことをもう一度見ておこうかと。絵美さんもう終わってるんですか?」
「あー、まぁ大体見たからね、なんとかなるでしょ」
「えー、そんな感じで何とかなるのすごいです。私は不安で」
「何が不安なの?」
「顔と名前を早めに覚えないとなとか、なんかクセの強い子いたらやだな、とかですかね」
 絵美さんはニッコリ笑って「大丈夫、会ってみたら何とかなるって、もう仕事終わりにしてご飯でも食べて帰ろうよ」と誘ってくれる。
 はーい、と言いながら不安はあるが、結局この不安って明日になるまでは同じなので絵美さんについて行った方がよいかなと思い、パソコンのファイルを閉じてシャットダウンを押す。
「もう終わるんで、先に職員室で帰り支度してください。追いかけますので」
 ほーい、じゃあ行っとくー、と言って絵美さんはヒラヒラと綺麗な手を振りながら教室を出て行った。すらりとしてスタイル抜群の絵美さんはこの男子校では生徒の憧れの的なんだと思うのだが、本人は「恋愛対象は一回り上の渋いオジサンなのよね」と、生徒の視線も全く眼中にないらしい。まぁ教師としては当然なんだけど。
 パソコンを閉じて生徒のファイルをパソコンに重ねて左手に抱えると忘れ物が無いか右手で指差し確認して立ち上がる。
 出て行ったはずの絵美さんがドアの向こうから顔を覗かせて「いやー、いつ見ても運転士のパパ譲りの見事な指差し確認ね」とからかって「出発進行!」と言いながら今度こそ職員室に向かって歩いて行った。
 あっ、と私は慌ただしく教室を出て鍵をかけると絵美さんに追いついて
「もう、やめてくださいよ、恥ずかしい」
「何で?いい習慣だと思うよ。しかも指差しのクオリティ高いし。ビシってね。あと私、麻里ちゃんの横顔好きなのよね、童顔なのに指差しの時だけすごいキリっとしてるのが素敵」と言って笑っている。褒められているのか、からかわれているのか、でも美人教師の絵美さんに言われると悪い気はしない。3年先輩だから年齢も3つしか変わらないんだけど、絵美さんはすごく綺麗で落ち着いていて、大人の女性だなと思う。
 廊下を並んで歩きながら、背の高い絵美さんを見上げて呟く。
「なんか、まだ切り替えられないなぁ」
「麻里ちゃんは初めての卒業生だったもんね。みんな良い子だったし」と絵美さんがヨシヨシ、わかるよという顔で私を覗き込んでくれる。
「もう何も教えてあげられないんだなって。ちょっと、いや結構寂しいです。あの子はこんなことがあったなぁとか家でも思い出しちゃって」
「この前の近藤先生の話が響いてる感じ?」
「そうですね。何か来るものありましたよね」

 近藤先生は今年の3月に定年退職をされた古文担当の男性教師だ。私の印象は優しいおじいちゃんといった感じだが、昔はかなり怖い先生だったとも聞く。そう言っているのは私が付き合っている、この高校の卒業生で今は母校に勤務している松田悠介だ。彼の学生時代は怖い方の教師として認識していたらしい。同僚の教師の中で彼だけは近藤先生から「松田」と呼び捨てにされていて、他の先生は若手の私も「高田先生」と呼ばれるのに悠介はいつも「松田、これなんだけどなぁ」といった風に声をかけられていた。悠介と同期の絵美さんは「元々教え子だからなんだと思うよ」と言っていた。
 そんな近藤先生の退職日の挨拶は次のようなものだった。
「教師になってからこの中学、高校で長年勤めて来ましたがこれまで話していなかった自分の思い出話を少しします。最後ですのでお付き合いください。
 教師になって5年目の時に担任をしていたクラスの生徒が退学しました。彼は素行の悪い生徒でよく注意をしていました。ある日、遅刻しても悪びれずにお昼前になって教室にのっそり入って来たので、いつものように教壇から叱り飛ばすと教室の入り口に鞄を投げ捨てふてぶてしく歩いて来ました。私の胸ぐらを掴んで殴ろうとしたので腹が立って、思わず私が先に彼を殴ってしまった。彼は唇の端を少し切って血を滲ませながら、きっと口を結んだまま教室を出て行きました。殴られた後の顔は怒りなどではなく、なんで自分のことをわかってくれないんだと悲しんでいたようにも思える。あの時の顔はずっと忘れられない。
 今思うとおかしな話だが当日は彼の家に電話もせず家を訪問もせず、ただ彼が残して行った鞄を自分の職員室の机に置いて、それを眺めていた記憶があります。暴力を正当化するつもりは全くないが当時はこの学校も今のような進学校ではなく、かなり元気のいい子たちが多かったので多少の手が出る、怒鳴るくらいはしていました。ただ、あれは頭に血が上って完全にやり過ぎだったと後悔しています。
 さすがに翌日には周りの先生にも知られていて「会いに行った方がよい」とアドバイスをされたり、「まぁアイツは殴らないとわからないよな」と同情されたりしました。私も若かったので意地になっていて、すぐには行きませんでした。今の時代では考えられないことですね。
 後日、家に行きましたが引越していました。それから連絡が取れていない。あれ以来会えていないが力になれなかったことを詫びたいとずっと思っていた。願わくばその後に私のような教師と違って立派な先生の下で学び、幸せな人生を歩んでいて欲しい。
 最後に後悔の話になってしまったが、そのことを除けば他に後悔はなく、良い生徒、良い同僚に恵まれて楽しい教師生活でした。生徒たちが卒業したら私たち教師はもう何かをしてあげることはできません。お別れしたら彼らを日々見守って声をかけてやることもできない。だから悔いのないよう、日々全力で彼らに向き合ってあげて下さい。それが教師の皆さんのやり甲斐にも繋がると思います」
 この退職の挨拶は動画でも保存されており当日聞けなかった教師にも後日共有された。

 職員室に荷物を置いて帰ろうとした時に絵美さんのスマホが鳴った。私は少し離れて掲示板の進学実績を眺めながら待っていると、絵美さんに肩を叩かれて、えっ?と振り返ると悠介がこちらに近づいて来るところだった。
 絵美さんは電話を終えると「ごめん、ちょっと急用で、また明日ご飯いこう」と言うと悠介の背中を押して「今日はコイツが相手してくれるから」と笑ってそのまま出て行った。
「相手しろって、何?ご飯?」と困ったような顔をする悠介に
「絵美さんが明日のことは緊張しててもしょうがないからと誘われてたんだけど、外で食べるのも疲れるし今日は帰ろうかな」
「じゃあ車で来てるし送っていくよ」
「ラッキー!ありがとう。駅から歩かなくて済んだ」
「安全運転でご自宅までお送りしますよ」
「どうせそのまま夕食を食べようと思ってるんでしょ」
「よろしく」

 家に帰って晩ご飯を作りながら「そういえば、近藤先生の動画見た?いなかったよね?」とキッチンから振り返ると
「あー、まだ見てないな、結構みんな感動したとは聞いたけど。まだだいぶ怖かった頃の話してたらしいね」
「えー、あれは絶対見た方がいいよ」
「本とか映画もそうなんだけど、いいよって言われると見る気がしなくなるんだよな」
「何それ、その歳でまだあまのじゃくやってるの?」
「そうじゃないけどさ、だいたい聞いたしなぁ」
「ご飯作ってるから、気が向いたら見なよ」
 うーん、と言ってから私の雑誌を手に取ったので、あ、これは見ないなと思ったが、無理に勧めるものでもないので黙って料理の方に集中することにした。
 大学まで実家暮らしだった、というのは言い訳にならないかもしれないが私は大して料理は出来ない。就職して家を出たので健康と経済面も考えて多少は自炊をするようになったが、カレーとか、野菜炒めとか、サラダとかが基本で、悠介と付き合うようになって「肉を食べたい」と言われて生姜焼きとか、サイコロステーキとか、ハンバーグを覚えた。今日も冷蔵庫に材料はあったのでハンバーグを作っている。
 ご飯は炊けたのでお味噌汁の鍋をコンロにかけて、隣でハンバーグを焼く。香ばしい香りが広がって、ぐぅーとお腹が鳴った。悠介に聞こえたかなと思って振り返って見てみると、パソコンを出して近藤先生の動画を見ていた。
 晩御飯をお盆に載せて持っていくと、悠介は慌ててパソコンを片付けてティッシュで目を拭った。
「近藤先生の見たの?」
「うん、泣けてくるね」と言ってお盆からお茶碗をテーブルに移しながら「いい先生だったな」と呟いた。
「そういえばさ、俺だけ呼び捨てなの知ってるだろ?あれ変だと思わない?」    
「あー、教え子だからじゃないの?って絵美さん言ってたけど」
「俺も最初は松田先生って呼ばれてたんだよ。教師になって1年目の秋くらいかな、俺うっかり学生の時に陰で呼んでた「近じい」っていうあだ名で呼びかけちゃったんだよね。ほんとうっかりだったんだけど。そしたら「お前らの頃は俺のこと爺さん扱いしてたよなぁ。最近の子は近ちゃんだぞ」とか言っててさ、ちょっと嬉しそうに笑ってるから「いまはキャラクター扱いっすね」って言ったら頭を教科書で叩かれてさ。「これ体罰ですよ」と言ったら「バカ言うな、お前はもう生徒でもないしな。先輩からの愛の鞭だ」だって。それで何か知らないけどそれ以降は呼び捨てになったんだよな。麻里だって高田先生なのにさ、俺には「おい、松田」だもんな」
 近藤先生を思い出しながら嬉しそうに悠介は笑うと、お箸で切ったハンバーグを口に運んだ。
「近藤先生、良い人だったね。悠介かわいがってもらってたんだね」
 私はこの3月に初めて生徒を送り出した。これから彼らが自分の道を歩んでいくんだな、もう何もしてあげられないんだなと思っていたところでもあったので、近藤先生の退職の言葉は心の深いところに響いていた。

 講堂での入学式が始まった。新入生は一度この講堂とは別の体育館に集合してクラスを確認した後、クラスごとに順番に入ってくる。その引率は新入生の担任ではない先生が担当している。毎年のことだけど今年の新入生は自分の受け持ちということもあって一人一人の顔をじっと見てしまう。
「ほら、生徒の方が緊張してるんだから、リラックスしなさいよ」絵美さんが私の緊張を見透かして、くくくっと笑いを堪えながら肘で小突いてくる。
「ちょっと、やめてくださいよ。ほら、教頭がこっち見てますよ」
「えー、マジ?いい男よねー、結婚してなければなぁ」
 ふふっと思わず笑ってしまうと
「そうそう、麻里ちゃん、ようやく笑顔が出たね。ニッコリ笑って迎えてあげよう」
 そう言って絵美さんは美しい笑顔を新入生に向けている。
 新入生300人の入場が終わり着席した。内部進学生100人、高校からの入学生200人。男子ばかりだがまだあどけなさも残る新入生は皆少し緊張した面持ちで背筋を伸ばして座っている。中にはもう友達になったのか、中学からの知り合いなのか隣同士でリラックスしておしゃべりしている子もいる。中等部からの内部進学生100人はちょっと先輩風を吹かせたいのか、澄ました顔で、でも新しい同級生を気にして見ている。本校は内部生と外部生が一年目から混ざるので内部生も高校からの入学生と同じクラスになる。

 入学式は滞りなく進んだ。式が終わると新入生には自分の教室に行くように指示があった。私もクラスに行かなきゃと思って講堂の入口に向かおうとした時に声をかけられた。
「あのー、近藤先生っていらっしゃいます?古文の先生で、もういないのかな」
 白髪混じりの角刈りで色黒なその男性は、少し大きめなサイズのスーツと窮屈そうに締めたネクタイをして、探しものが見つからないといった風な顔をしている。
「えっと」
「あー、すみません。うちの息子が今年からこちらでお世話になります。石田と言います」
 石田くん、確か私のクラスにいたなと思いつつ
「近藤先生でしたらこの3月に定年退職されましたが」
「遅かったかぁー、近藤先生に会いたかったなぁ。私、卒業してないけど先生にお世話になってね」
 隣で聞いていた絵美さんが私に近づいて
「まさか、ね」
「いや、でも、そうかもしれないです」
 絵美さんが石田さんに「あの、近藤先生に殴られて退学したという方ですか?」
 そんなストレートな聞き方?と絵美さんの方を振り返ると、いつになく真剣な顔で石田さんをまっすぐに見ている。
「えっ、私のこと知ってるんですか?あー、殴られたからではなくて親の離婚が決まってて、引っ越しすることになってたんですよ。それで殴られたまま引っ越しちゃったんですよ。だからそのまま退学ですね。引っ越しの直前まで学校にも引越しのこと言ってなくてね。最後の日くらいは先生にも話をしたらよかったんですけど反抗期だったのかなぁ。なんか遅刻して行ったら怒鳴られてね。頭に来て掴み掛かろうとしたら先に右ストレートですよ。痛かったなぁ。大工に弟子入りしたから親方に殴られたりしたけど、あれ以上に効いたパンチはなかったですね。あはは。あぁ、引っ越したあとはね、母親の地元に引っ越したんですけど勉強嫌いだったから学校は行かずにフラフラしてて、それから大工職人のとこでバイトして、そのまま弟子入りしたみたいになって、まぁよう殴られて苦労しました」といって白い歯を見せてニッコリ笑う。
「ホントに、あの生徒さんなの?!」そう言った絵美さんと私は顔を見合わせる。
「え、もう30年くらい経ってるのに話が伝わってますか」
「近藤先生が退職する時の挨拶であなたのこと話してましたよ」
 私がそう言ってるうちに絵美さんがパソコンで近藤先生の動画を準備しつつ、少し離れたところにいた悠介を手招きする。
「これ、近藤先生の動画ですよ」
 石田さんは絵美さんからパソコンを受け取ると画面に映った近藤先生を見て、あー、先生も老けたなあ、そりゃそうかと独り言を呟いた後、再生された動画を真剣な表情で見つめ先生の話に聞き入る。見ているうちに顔が上気して目のまわりがうっすらと赤くなり、近藤先生の「願わくばその後に私のような教師と違って立派な先生の下で学び、幸せな人生を歩んでいて欲しい」という言葉で堪えていたものが溢れ、一筋の涙が流れた。30年前の近藤先生の教室に戻って先生と向き合っているような気がした。
 石田さんは涙を拭って照れくさそうに笑うとパソコンを絵美さんに返して「うちの息子がここにお世話になることになったんで近藤先生に会って話してみたいなー、なんて思ってたんですが間に合いませんでしたね。でも最後のお姿を見られて良かったです。ありがとうございました」と頭を下げた。
 絵美さんは二回りくらい年上の男性をまるで自分の生徒のように見つめて、
「何言ってんの、まだ間に合うでしょ、会いに行って来なさい」と一喝した。
「えっ?、絵美さん、ちょっと」と私が言うのには構わず絵美さんは悠介を引っ張ると、
「私たちは連絡先わかりますから、彼が今から近藤先生に電話します」
 石田さんは驚いた顔で絵美さんと悠介を交互に見ると
「いいんですか?」
「当たり前じゃない、近藤先生も会いたいに決まってるでしょ」そう言うと悠介に「早く、電話して」と今度はパソコンで前年度の職員連絡網を開いて見せる。
 悠介はスマホを取り出すと連絡網を見ながら番号を押して「俺、近藤先生に電話したことないから緊張するなぁ」と言いながら耳に当てる。
「もしもし、松田です。近藤先生ですか?あぁ、もう先生じゃない?ははは。えっ?いえいえ、忘れ物じゃないんですが、あ、でも忘れ物が届いたのかな」
 そう言って悠介がスマホを差し出すと、石田さんは高校生のような幼く少し不安げな顔で受け取り、ゆっくり自分の耳に当てる。
「もしもし、石田です。ご無沙汰してます」と緊張した面持ちで一言いうと、後は背筋を伸ばして近藤先生の話を聞いていた。
 電話を切ると私たちに「先生の家に行って来ます。せっかくだから顔を見せろと言ってもらいまして」とまだ緊張と不安と、でも嬉しさも入り混じった様子を見せてから、少し離れたところにいた奥さんに近寄って「先生と電話で話せた。今から会いに行ってくるよ」と言った。奥さんは、うんうんともう貰い泣きをしながら、でも嬉しそうに石田さんを見つめて微笑んでいる。優しい笑顔だな。
 石田さんと奥さんは私達にお辞儀をして2人並んで講堂から出て行った。

「じゃあ僕は片付けに戻るね」
「うん、ありがとう。麻里ちゃん、私達も早く教室に行かないと。新入生が待ってるね」
「あっ、そうですね」
 絵美さんと並んで新入生が待つ教室に向かう。石田さんの息子も私の教室で待っているだろう。
 急ぎ足で廊下を歩いていると絵美さんがふふっと笑う。
「えっ、どうしたんですか」
「スーツ、似合ってなかったよね。着慣れてない感じ。ネクタイ曲がってたし」
「でも、石田さんのあの表情と隣にいた奥さんを見たらわかりました」
「うん、近藤先生の願いは叶ってたね」
「はい!」
「よしっ、私たちも頑張ろう!」
 私の肩をポンと優しく叩いて絵美さんは1つ手前の教室に入って行った。
 その次の教室の前で1つ深呼吸。
 私は新しいクラスのドアを開ける。

(了)

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