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【小説】日本の仔:第20話

 結局、二人とも政府へ精子を提供することになったが、徳永の精液の採取にはかなり手間が掛かったらしい。それもそのはず、実は徳永はマスターベーションをしたことがないというのだ。二十歳にもなって、そういうことに興味がなかったとは変人にも程があると思ったものの、実際に今そういう子どもが増えているらしい。これでは既婚率が下がる訳だ…

 全国から集められた優秀な遺伝子を持つとされる精子は冷凍保存され、「日本の子」政策に応募し、厳正な審査を通った女性に提供され、体外受精を経て母親となる女性の子宮に戻されることになる。

 結局、政府からの募集に対して、18歳~42歳の女性25,375名の応募があり、書類及びDNA検査による選考で12,798名に絞られ、健康診断、NMAT試験、IQテスト、体力テスト、面接試験を経て、最終的に3,245名が対象として合格した。その後、母親となる女性から卵子を採取し、精子提供者の精子と体外受精を行う。卵子のDNAは予め遺伝子マップを作成し、遺伝病などがなるべく現れない精子とマッチングされて受精させ、胚盤胞まで進んだ時点で母親となる女性の子宮に戻されて着床を試みる。

 最初のトライで着床に成功したのは954名、その後無事に生まれたのは724名だった。
 この子らは「ファーストチルドレン」と呼ばれることになった。
 ただ、この人数は、政府が想定していた人数の3分の1以下であったため、最終試験で不合格とされたメンバーから選考基準を少し落として、対象を7,287名まで増やし、最初の合格者と同様に体外受精を行い、最初の合格者で着床まで行かなかったメンバーの再チャレンジと合わせて、半年後までに1,526名の子どもが生まれた。この子らを「セカンドチルドレン」と呼んだ。

 その後、精子提供者の探索や母親となる女性の募集を続け、10年後までに20回、延べ19,356名の「日本の子」が生まれることになった。
 そしてその中に、徳永の子どもは5人、清水坂の子どもは3人生まれていた。

【李 浩宇】(東都医科大学教授)
「P-2006受精卵のゲノム解析が終わったんですが、ちょっと妙なんです」
 私の助手を務めてくれている職員が報告をしにラボに来てくれた。

「どうした?」
「これを見てください。遺伝病発現因子、欠損が1つもないんです」
「なに!?」

 日本の子政策の母親志願者から採取された卵子は凍結保存され、ここジーンラボに運ばれてくる。
 そして、同じく精子提供者から採取した精子と人工受精される。
 母親と精子提供者のDNAは事前にマッピングされ、なるべく遺伝病が発現せず、体格、身体能力、精神力、脳力などが向上する組み合わせで受精を行う。
 通常の体外受精では受精卵を培養液内で細胞分裂させ、ある程度育って胚となった後に母親の体内に戻して着床させるのだが、日本の子の受精卵は受精した直後に細胞分裂を抑制され、遺伝子の解析が行われる。
 ここまでは、単純に遺伝病の検査をしているだけとみなすことができるが、実際にはここから禁断の遺伝子操作が行われるのだ。

 2018年、中国で遺伝子操作されたヒトの女児を誕生させたとして、物議を醸した人物がいた。
 本人はHIV耐性を持たせるための操作だと主張していたが、もし本当に遺伝子操作されたということであれば、デザイナーズベイビーを誕生させてしまったという、正にパンドラの匣を開けてしまったことになる。

 なぜなら、今までヒトは親の遺伝的要素を引き継ぎながら何世代にも亘って少しずつ進化をしてきたのだが、遺伝子を意図的に操作したヒトが生まれることで、良かれと思って施したことだとしても、その進化をねじ曲げ、更には新たな病気を産み出し、人類が滅亡する可能性も否定できないのだ。

 その人物は秘密で行っていた研究を発表してしまったことで、世界中の関係者から糾弾され、学会から姿を消した。
 私はその人物の共同研究者だったが、研究を発表することには反対をしていて、いよいよ発表をするとなった時に逃げるようにして中国から日本に渡った。
 その後私は、ほとんど注目されず、何事もなく日本の大学で遺伝子工学を教えることになった。

 そして、日本政府が「日本の子」政策を企画し始めた際に文部科学省に呼び出された。
 日本政府は私の経歴を知っていたのだ。
 そう、政府は優秀な「日本の子」を産み出すために遺伝子操作を行うつもりだった。

 私は悩んだ。本来の遺伝病をなくすという目的のために研究を続けたい気持ちはあったものの、実験ではなく実際に社会に出ていく人間に遺伝子操作を施すことは、得たいの知れないモンスターを世に解き放つことになるのではないか。人類の滅亡に加担するのはゴメンだ。

 そういったことを伝えると、日本政府も私の思いを知ってか、現在までに解っている遺伝病を抑制し、欠損している遺伝子を修復するだけで構わないと言ってきた。
 本当かどうか怪しいとは思ったが、私はこの分野でこれからも最先端の研究ができるという誘惑に負けてしまった。
 そして、多くの動物実験とヒトの受精卵での実験を経て、高速遺伝子解析、CRISPR-cas9による遺伝子操作技術を確立させ、既に「日本の子」として誕生した子どもも数十人に上っていた。

 通常、受精卵の遺伝子解析を行うといくつかの遺伝病因子と遺伝子欠損が見つかり、その部分を補修する操作が行われる。どちらも1つも見つからないということは今までにはなかった。
 しかし、このP-2006受精卵には1つも見つからないというのだ。

「しかも、遺伝子砂漠領域に他には見られない情報が数多く見られます」
「了不起…」

 遺伝子砂漠領域とは、何らかの形で発現する意味のある遺伝情報とは異なり、遺伝には携わらないと考えられている部分のことで、同じ塩基配列が繰り返し現れる回文と呼ばれる無意味な情報が入っていることが多い。
 しかしこの受精卵の遺伝子砂漠領域の一部に、通常のヒトの遺伝子には見られない情報が格納されているというのだ。
 それは、セントラルドグマによって、ヒトにはないタンパク質が合成される可能性があるということだ。
 その場合、恐らく奇形児として生まれるか、死産となる可能性が高い。

「このまま母体に戻しても無事に産まれない可能性が高いと思われます。P-2006は廃棄しますか?」
「待て。もしかしたら正常に育つかもしれない。遺伝子操作を行わずに母体に戻してみよう」
 なぜ私はこんな危険な決断をいとも簡単にしてしまったのだろう。
 後から考えると不思議でならない。

 P-2006受精卵はそのまま培養され、3日後に母体に戻された。
 その後、無事に着床し、胎児に育って行ったが、いつ奇形児となってしまうか丁寧に検査を行っていった。
 3ヶ月が過ぎ、超音波診断による検査では異常は見つからなかった。
 その後も特に異常もなく育ったが、臨月を迎えた頃、1つだけ異常が見つかった。

 それは、脳の構造の違いだった。
 ヒトの脳は、大脳、間脳、脳幹、小脳という大きく4つの部分に分かれており、間脳は更に視床、視床下部に分かれている。この胎児は視床下部の大きさが通常の胎児の2倍近くあったのだ。
 視床下部とは自律神経系の制御や感情に関わっているとされ、下垂体に様々なホルモンを分泌させる働きがある。
 この子が生まれたら、自律神経や感情に問題が出てくる可能性があるということだ。
 しかし、その他には身体的な異常は見当たらなかったため、この程度の異常はこの子の誕生を妨げるものではなかった。
 そして、202X年10月、この子は無事に「日本の子」として生まれた。
 精子提供者は徳永秀康だった。

「日本の仔」第一章 完

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