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仙台百景

春から就職のために大阪に引っ越すことになった。大学4年間を過ごした仙台を離れることになって、3月は引っ越しの準備や最後に人と会うので忙しかった。卒業式を終えて新居に越してきたのがつい先週のことだ。


仙台は僕にとって初めての一人暮らしの舞台で、地元の京都からは遠く離れた土地だった。
4年間で会った色んな人に、「なんで京都からわざわざ仙台の大学に?」と聞かれた。僕はいつもこう答えていた。
「仙台は行ったことがなかったから」
だいぶ適当な理由だけど、半分は本当だった。残りの半分は大学が学力的に努力してなんとか届くレベルだったからだ。とにかく大学のあいだ住む場所を好きに決められるのなら、地元からは離れたとこが良いと思っていた。できれば西より東側がよくて、北海道は流石に遠すぎるので仙台にした。それだけだ。

4年前、大学の二次試験の時に初めて仙台の地を踏んだ。最初に感じたのは、街中に背の高い街路樹や川があって落ち着いた街という印象だった。
それから晴れて仙台で大学生活を始めることになった。新しい土地で知り合いはほぼおらず、0からのスタートだった。
最初の数ヶ月はとにかく目まぐるしく過ぎた。一人暮らし、大学の授業、人間関係…春の高揚感の中で新しい環境に少しずつ慣れていった。



半年もすると、大学にも一人暮らしにも慣れてくる。僕は早くも仙台ぐらしに飽き始めていた。
そのころ僕の生活は、ほぼ大学と家とバイト先の三角形の中だけで完結していた。三角形の中をぐるぐるする毎日は退屈だった。大学の薄い人間関係や、思ったよりすぐ過ぎる毎日が嫌になっていたのもあった。
選ぶ土地を間違えたとさえ思っていた。その時はまだ、仙台は風が強くて寒い街でしかなかった。


仙台を徐々に受け入れられるようになったのは二年生の頃だった。未曾有のパンデミックで授業が全部オンラインになって、しばらく僕は実家に滞在しており、数ヶ月後にようやく仙台に戻ってきた。
仙台の街はちょうど初夏の頃で、定禅寺通りの街路樹が青々と茂っているのが目に映った。木陰になっている歩道を通り抜ける風が涼しかった。
どこかよそよそしかった異郷の地が、その時ようやく懐かしく思えた。仙台に"帰ってきた"と感じていた。



それからは狭いエリアに引きこもらず、色んな場所に行った。
仙台は市街地がコンパクトにまとまっている分、自転車でどこへでも行けた。自然も市街地もすぐ近くにあるのは今考えると恵まれていた。チャリで泉や仙台港まで漕ぎ続けたこともある。
友達の家も大体歩いていける範囲にあった。夜中にでも遊びに行き、だいたい明け方に帰った。晴れた日にはたまに、近くにある広瀬川の堤防を散歩した。
仙台は、慣れるととても住みやすい街だった。

次第に親しい友達もでき始めた。
大学三年ぐらいになると飲み会も増えた。国分町で朝方まで飲んで帰宅する。歩いて帰れる距離に飲み屋街があるからこそできる遊びだ。僕にとって仙台は、終電の概念がない変な街だった。



いつの間にか、仙台で4年も過ごしていた。今の僕にとって仙台は生活の全てで、親しい人が何人もいる街で、思い出が染み付いた土地になっている。

3月、土地を離れる実感が湧かないまま、卒業旅行や最後の飲み会の予定だけが建てられていった。引っ越しに向けて部屋のものを処分したり、諸々の役所的な手続きをする必要もあった。友達にできるだけ会い、バイト先に挨拶に行き、行きつけの床屋に最後の散髪をしてもらいに行った。



生活がだんだんと音を立てて組み変わる予感がある。これまでの4年間の生活を一枚ずつ剥がして、新たに作り替えていく。

深夜に買い物に行った西友が。友達んちの近くのラーメン屋が。大学のキャンパスが。国分町の安い居酒屋が。広瀬川の堤防沿いが。花見をした公園が。当たり前の生活の一ピースだった風景は、もう思い出の一部になってしまう。
まだ行けていない場所もあった。いつでも当たり前に行けると思っていたら、もう気軽には行けなくなってしまった。

あまりにも思い出が多すぎた。4年という月日はすぐ過ぎ去ったようでいて、じわじわと堆積して膨大な思い出になっていた。



卒業式。関わりのあった友達と写真を撮り、もう会わないかもしれない人たちと最後に喋った。そのたびに記憶が蘇り、仙台での4年間を振り返った。

大学は不思議な場所だ。生まれも育ちも異なる人々が同じ土地で4年間を過ごして、またどこかへ散り散りになっていく。二度と戻ることはないのかもしれない。

その土地が仙台で本当に良かったと、今では思う。


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