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異国の地で交通事故に遭って死にかけた話①


もう昔のことなのに、ほんの数年前みたいにも感じる。

昔、ちょうど今くらいの季節…10月に、
イタリアで、交通事故に遭った。

フィレンツェの、その当時住んでいた家の近くで。

私はその日一日のディテールをあまりはっきりと憶えていなくて、
一緒に事故に遭ったルカのほうは、記憶も、意識もはっきりしていたので、後から彼にいろいろと話を聞かせてもらった。

その日は夕方、ルカと一緒に買い物に行くことになっていて、彼の退社時間に合わせて、彼の会社近くのスーパーマーケットの入り口で待ち合わせをした。

二人で買い物を終えて、ルカの愛車だったHONDAのバイク ー   イタリアではスクテローネといって、日本だとビッグスクーターと呼ばれる種類だそうだけど、かなり大きな二輪車で、重量も、大きさから来る安定感もあるバイク ー
に乗って家に帰り、夕食を作って一緒に食べて、その日は、あとはリラックスして過ごすはずだった。

夕食が終わる頃、ルカの携帯電話が鳴った。
友達たちが数人集まっているから君たちも来ないか、という誘いの電話。

私は憶えてないんだけど、ルカによればこのとき私は「今日は出かけないで家にいましょうよ」と言ったらしい。
でも
律儀者で、特に男同士の友情には格別の気遣いを示す性質のルカは、せっかく友達が誘いの電話をくれたのだからと言って私を説得して、
私も説得されて、出かけることになった。

台所を片付けて、出かける支度をして、時刻は夜の10時過ぎ。

フィレンツェの10月の夜は肌寒く、しかもバイクなので、私は軽めのダウンジャケットを着ていたと思う。
当時イタリアでの私の基本ファッションはジーンズだったので、下はジーンズ姿。
そして秋冬は服の色に合わせて、イタリアらしい、色のきれいな革の手袋をつけて出掛けるのがお気に入りだったので、その時も私は、革の手袋をしてルカのバイクに跨ったのだけど、それが事故の際、多少、私の手を守ってくれることになった。

ルカも、革のジャケットに、ジーンズに、手袋。
これが夏だったら、おそらく身体への傷跡やダメージも、変わっていただろうと思う。
ツーリングに出るならともかく、ちょっとそこまで出かける程度なら、夏だったらきっと二人共、軽装だっただろうから…

ヘルメットはいつも、きちんとかぶってた。
ルカはフルフェイスのメットで、私のはタンデム用の、顎の下でパチンとホックを留めるタイプのヘルメット。
両方とも事故の衝撃にも脱げずにしっかりと、私たちの頭を守ってくれた。
後で見たら、左右と後頭部それぞれに、大きな裂傷が刻まれていたけど。

ルカがバイクに跨って、私が乗りやすいようにバイクをこちら側に傾ける。
何度もそうやって乗っていたから、その夜、バイクに跨る時に、いつもと違った感じがしたかどうか、はっきりと思い出せない。
ただ私はその時、少し不満な気持ちで家を出たことは確かだったと思う。
夕方バイクで家に戻ったとき、既に寒さで身体が冷たく感じたから、その夜はバスタブにお湯を張って、ゆっくり身体を温めたいと思っていたから。

事故は走り出してすぐに起きた。
家から2ブロックも行かないところで、STOP と地面に英語で書いてある一時停止線を無視した乗用車が、私たちの左側から、通常の速度で走ってきた。

ルカは走りながらその車の存在に気付いたけど、一時停止線で止まるだろうと思ったそうだ。
けれどその車は停止せず、速度も落とさず、こちらへ向かい続けて来る…

「こいつ、俺たちを轢いた    ーーー  」

そう思った瞬間に、宙に、高く放り投げ出される感覚があり、それからいつまで経ってもぜんぜん地面に着かなくて、一体どれくらい空中にいたのかと思うほど、随分と長い時間を感じていたのだそうだ。

後に警察の検分書類を見た時に、私とルカは、接触地点から15mほども空を飛んだと判った。
そこは住宅街の真ん中で、重厚な石造りの建物に囲まれた場所であり、私たちの飛行(?)ルートがもしほんの少しズレていたら、
その堅牢でがっしりとした建物の壁に自ら身体を叩き付けていたか、
バロック的な重々しい装飾のついた、大きな鉄製の街灯に激しく身体を打ち付けていたか、
いずれにしても打ち所が悪ければ、そのまま即死していた可能性もあった、ということだった。

その接触地点から落下地点まで、私たちは二人とも、建物と街灯の間、たった1.2メートルほどの空間を、選ぶように上手くすり抜けて飛び(「奇跡的」と言われた)、建物の前の、幅2mもない歩道の上に、どさりと落ちた。

ルカは仰向けに倒れていて、私はルカの足先の少し離れたところに、うつ伏せに倒れていたのが見えたらしい。
私の名前を何度呼んでも、私がピクリとも動かないので、ものすごく怖かった とルカは語った。
「アイウート!アイウート!」(Aiuto 「助けて」)
と動かない身体を地面に横たえたまま、声の限りに叫び続けると、
周辺の建物から人々が三々五々、降りてきてくれて、ルカが私の安否を尋ねると、数人の人が私を抱き起こしてくれ、ぺちぺち頬っぺたを叩いたり、話しかけたりしたら、指が ピクン と動いたので、
初めて私が生きてることがわかって、心底安心したそうだ。

その人たちが、警察と、救急車を呼んでくれた。
ルカは「たぶんその時の俺はアドレナリンが噴出してたと思う」と述懐する。
「轢いたやつはどこ行った!逃げたのか⁈」と叫びまくったり、
私のそばへ行こうとして身体を起こそうと暴れて、
でも力が入らず、全く身体が動いてくれないので
(私もルカもこの時かなり出血していたらしい)
代わりに私の名前を叫び続けたり、
興奮状態で一人でわめき散らして
「いいか、落ち着け、大丈夫だ、大人しくしてろ。」
と、何人もの人に肩を押さえられ、なだめるように話しかけられてたよ、
と苦笑いしながら語ってくれた。

その車を運転していたのは、30代のイスラエル人旅行者(カップル)で、ローマのフィウミチーノ(空港)から乗って来ていた。
明らかに一時停止サインを無視して起こした事故にも関わらず、本人手書きの供述書には英語で
「一時停止をし、ゆっくり走り始めたら、バイクが目の前に現れた」
と書いてあった。
警察の事故現場の検分で、そんなウソはバレバレだったけど。

私たちが周辺住民の人たちに助けられているあいだ、その犯人もそこにいたはずだとルカは言う。
ルカのスクテローネは、私たちが飛ばされた方角とは直角の方向へ50m先まで滑って行き、
犯人の車も同じ道(車の進行方向)の20m先で、壊れて動かなくなり、事故現場から逃げることは出来なかったから。

犯人が警察に、乗っていたのは自分だと名乗り出たのは、
レンタカーだったので、ナンバーを照会すれば誰が借りた車なのかはすぐに調べがつくから、逃げても無駄だと思ったからだろう。

でもこんなことを知ったのは、全部後になってからで、この犯人の旅行者たちは当然のように私たちのお見舞いにも来ていないし、事故の供述書作成のあとは釈放され、そのままイタリア旅行を続けたらしい。

フィレンツェはイタリアの中でも、外科医療が優秀なのだそうだ。
だから他の州からも、高度な外科手術の必要な患者たちが送られて来たり、自費で自らやって来たりする。

私たちが運び込まれた病院は、特に事故原因による外科医療やリハビリを専門とする病院で、フィレンツェ市内の病院群が集まる地域、カレッジと呼ばれる場所にあった。

不幸中の幸いと言うけれど、その夜の私たちもその恩恵に預かった。
その日、その病院でいちばん腕の良いお医者さんが、夜勤の当番だった。

一度は当番の時間を終えて帰宅の途についたところを、携帯への緊急連絡で呼び戻されたらしい。
すぐに病院に戻ってくれたドットーレ(Dottore ドクター)は、それから朝の5時まで、私とルカ、二人の手術を立て続けに行なって下さった。

意識もあって、ある意味、元気まんまんのルカと、
呼びかければ目を開き、話しかける内容によってはうなづく反応はするけれど、質問しても自分の意志では一言も喋らない私は、自然と対応が別になったという。

私は目を開いていても、意識は気絶してたんだと思う。
今でも、事故に遭ったその夜の、家を出てから、病院のリアニマツィオーネ(Rianimazione 日本でいう集中治療室)で目が覚めるときまでの記憶が全く無くて、何一つ思い出せないから。

病院に運び込まれて、別々のところに連れて行かれる前、椅子に座らされた人形(ルカ談)のような私に、ルカは
「アモーレ、ここは病院だ。もう大丈夫だ、安心していいからね」と必死に語りかけたけど、
私は無表情で虚ろな瞳のまま、こくん と黙ってうなづいただけだったので、
「彼女に嫌われた、もうおしまいだ」
と思ったそうだ。


長いので次に続きます☆


書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡