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祈りの日

*発表が一日遅れてしまいましたが
誤差の範囲内と思って、どうかご了承ください。


あのときはまだ外国に住んでいて、
しかもその日はたまたま、旅行で家を空けていて
ネットどころかTVすらない、
山のふもとの小さな町のホテルに泊まっていた。

わたしは当時、イタリアのトスカーナ州、フィレンツェに住んでいた。

数年ぶりに友人に会うために、フィレンツェから列車で4時間のその町を訪れ、
久しぶりの再会を喜んだあと
うちは客用寝室のない小さな家だから、と
その友人が予約しておいてくれた
小さな可愛らしいホテルでぐっすりと眠った、
次の日の朝…

イタリア時間の3月11日
(時差:日本時間の8時間遅れ)の早朝に、
フィレンツェの日本人の友達から
携帯電話にメッセージが届いた。

「日本で大変な地震が起きたの知ってる?
すぐご家族に連絡をとったほうがいいよ」

…え? 大変な地震って?

ざわつく気持ちを抑えながら
その一報をくれた友達には手短かにお礼の返信を送り

朝食のあとホテルに迎えに来てくれる予定だった友人にすぐに連絡をとり、
観光に出かける予定を変更して、もう一度その友人の家に連れていってもらった。

そこでインターネットや、TVのニュースを見せてもらって
初めて
それがどんな地震だったのかを知った。

お願いしてパソコンを借り、
当時私の日本の実家にネット環境はなかったので

独立して家を出ているきょうだいたちのメールアドレス宛てに
安否確認の質問と、
「心配しています、もし可能なら連絡ください」
という、短いメッセージを送った。

家族とはその24時間後に、連絡が取れた。
全員怪我も無く、お互いの安否確認も取れているということで、
とりあえずホッとはしたけど気持ちは落ち着かず、頭はまだ混乱していた。

すでに日本では、食料などの商品不足と、ガソリン不足が始まっていたと思う。

その後フィレンツェに戻ってからは毎日、日本の実家に電話して、
親に、体調や、日本での何かの進展を聞いていたけど

計画停電もあるし、電話は毎日かけて来なくていい と言われた。

「何を送ればいい?わたし帰ったほうがいい?」
何かにあせる気持ちで、そんなことを家族に聞いたりしていた記憶がある。

しばらくはYouTubeなどで
日本のTV映像や、被災者の投稿や、関連動画などを毎日、泣きながら観ていた。
現実とは思えない映像は、どれも本当にショックだった。

呆然とするしかなかった。
だって 
何コレ?ほんとに?映画のCGじゃないの?
って感じだったし…

どうして? 
って疑問形でこの言葉が出たのは最初だけで、
ずっと色んな、さまざまな動画を見続けながら、
どうして…  どうして… って、
自分でも
何の為に、どんな意味で言ってるのかすら分からないまま、
ずっとこの言葉が、何度も、
口から呟き流れ続けてた。

イタリアのTVニュースは、原発のことしか報道してなかった。

続報はいつも津波の映像と、原発の扇情的な映像ばかりを繰り返し流していて、
人々の様子は、イタリアのTVニュースからは
あまり分からなかった。

郵便局へ行って、日本への小包送付について
何日くらいかかるのか問い合わせたら、
「今は何も保証できない」と言われた。
何日かかるのかも、
ちゃんと無事に届くのかも。

日本⇔イタリア間の郵便は、ただでさえ
100%無事に届く保証などなかったのだけど
その時期はたぶん、日本のほうでも
世界各国から救援物資などがたくさん送られてきていた時期だろうから、
個人の小包などは、後回しにされていたのかも知れない。

家族からは
ただでさえ食料が足りないんだから、帰って来られても困るし、大丈夫だから心配するな 
と言われた。
私は
もしこっちに来たかったら、いつでも来て良いから。泊まるスペースはあるから。
と伝えた。

この時期は街なかに出ると、
知らないイタリア人の人や、
スーパーのレジ係の人、レジに並んでいた人、
バールや店など
たまたま言葉を交わすことになった人びとや、
道でわざわざ私に近づいて来て、話しかけてくる人たちから
先ず「あなた日本人?」と聞かれ、
そうだと答えると、
「地震や津波、原発事故のこと、本当に大変でしたね。
あなたの家族は大丈夫だったのか?
自分は心から、本当にお気の毒に、残念に思っている。
日本人は素晴らしい人たちだから、きっとすぐに回復すると信じている。」
といったようなことを
本当にしょっちゅう、
いろんな場所で、いろんな人たちから言われた。

私が青い顔でもしていたのか、
時には
肩や背中を慰めるように叩いたり、さすったりしながら、励ましてくれる人たちもいた。

しばらくして
日本赤十字に寄付する目的で 
募金活動の許可をフィレンツェ市からもらったから、
この日何時~何時まで、手の空いてる人は手伝ってくれ
という情報が、日本人の友達経由でまわってきた。

「募金箱に寄付してくれた人に折り紙をプレゼントする」という趣旨だったので、
私も折り紙要員の一人として、その日の午後じゅう
お互い初対面の人の方が多い、
日本人フィレンツェ在住者のみなさんたちと

どこで借りて来たのか、そこに持ち込まれていたオフィス用の長テーブルを囲むように、
皆立ったまま、鶴を折り続けた。

他にも手裏剣や、やっこさんなど
「こんなのなかった?」とか
「どう折るんだったっけ」等と
みんなそれぞれ、思い思いの折り紙を折って 

イタリア人の家族連れや友達同士、
若いカップルやご年配のカップル、
本当にたくさんの
励ましの声をかけてくれながら寄付してくれる人たちに、
こちらからもお礼を言いながら、プレゼントしていった。

そのとき気づいたんだけど

イタリアの人って、基本的に
普段あまりお金を使おうとはしない人たちなんだけど

この募金活動中
寄付してくれる人たちは、
子供以外は、コインを入れる人がいなかった。

皆、お札を入れてくれていた。
10ユーロ札とか、20ユーロ札とか。
日本の感覚でいうと、1000円とか2000円。

私は日本で、街なかの募金箱に寄付をするとき、
それまでいつも、コインを入れていた。
どういうわけか子供のときから、
そういう寄付をする時は、コインを入れるものだと思っていたから。

考えてみれば、不思議な思い込みだったな… って
この機会に初めて気がついた。

もちろんイタリアで募金活動なんてしたのは最初で最後だったから、
それが寄付をする時の、イタリア人の普通の行動なのかは分からない。

けれど、当時フィレンツェでは
私の周辺の人たちの一ヶ月の平均月収は、1000〜1200ユーロそこそこだったし、

イタリアでもリーマンショック後の不況で、社会全体が節約モードになって久しい状態だった。

生活が苦しかったのは現地在住の日本人だって同じだったから、
この日ボランティアをしていた他の日本人の人たちも、同じことに気がついたみたいで
皆で 
「ちょっとイタリア人に対する見方が変わったかも…(有り難い/優しいよね)」
と話したりした。

『3.11』が起こらなかったら、
私は日本に戻っていなかったと思う。

瓦礫の一つでも運ばなければ…
私にも何か出来ることがあるのでは…

そんな想いが頭から離れなくなってきて

どうやらイタリアと親和性が高かったらしく
深く祖国を愛する気持ちは持っていても
イタリアに住んでいた間、
日本の生活を懐かしく感じることなど全くなく、
ましてや「帰りたい」なんて一度も思ったことのなかった私が

初めて

日本に帰りたい、帰らないと…
と強く感じた。

とはいえ、簡単に決断できる事ではなかったので
数ヶ月間、心は揺れ、悩み続けたけど

その半年後
日本に引き揚げる決心をして、
約12年に渡るあちらでの生活を手仕舞いし、
帰国した。

被災地復興のために、猫の手くらいにはなるのではと思いながらも
私自身の体調や体力のことを、家族たちにも指摘され
実際のところ、せいぜい
東北のお米とか野菜を選んで買って食べていたくらいで、
結局、何の役にも立てやしなかった。


今日は祈りの日…


あの日とつぜんに
心に深い傷を負うことになってしまった人々と、
その心づもり無く旅立たれたすべての魂の、
鎮魂と 慰めを。

どうか安らかに、穏やかに、
微笑んで休まれますよう…
傷ついた心がすこしでも元のとおりに、きれいな姿を取り戻せますよう…
必要ならば、私のぶんの生命エネルギーも、どうかお使いください。


3月11日によせて、心よりお祈りいたします。


がんばろう、日本。



書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡