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くるくる電車旅〈ほんに昔の昔の事よ〉

東海道刈谷駅付近に、宮城道雄の供養塔があるという。宮城道雄といえば邦楽家。「春の海」の作曲者であることは、日本人なら(おそらく)誰でも知っている。宮城道雄は、盲目だった。その人の死が列車からの転落死だったことは、内田百閒の「東海道刈谷駅」で知った。

梅雨の最中だというのに猛暑日予報の土曜日、わたしは、刈谷へ供養塔を探しにでかけた。
内田百閒『追懐の筆』(中公文庫)が旅のお供だ。この中に「東海道刈谷駅」が載っている。百閒先生にとっと宮城道雄がどれほど大切な人だったか、ひしひしと伝わる哀切きわまる追悼文である。

家を出て、地下鉄で名古屋駅へ。
乗客は多い。小さな子どもたちの声も聞こえる。暑くてもみんな元気だ。
地下鉄の中で、「東海道刈谷駅」を、パラパラと読み返した。

宮城道雄の転落事故は、昭和31年6月25日未明に起きた。関西公演のために午後8時30分東京駅発、急行「銀河」に乗っていた。寝台車だ。
宮城道雄は、盲人だが、一人で何でもできる人だった。リーダーズダイジェストでも東大医学部の学術論文でも、点字にさえなっていれば、読んでしまう。全国を公演でとびまわり、旅慣れもしていた。だから、夜中にトイレに立ったとき、付き添いの人を起こさず、ひとりで行こうとしたのだろう。お酒が好きだったから、ほろ酔いだったのかもしれない。トイレのドアと間違えてデッキに出る扉を開け……
ちょうど東海道線と名鉄三河線が立体で交叉する地点だったという。

わたしは、名古屋駅の東海道線上りホームで、オレンジジュースを買った。飲み終えたころに、快速豊橋行が来た。「銀河」なんていうロマンチックな名前の電車は、いまはもうない。普通か快速か新快速。これは名前とはいえないな。たんなる種別?  「のぞみ」とか「ひかり」とか「こだま」とか、名前は新幹線に奪われた。しかも、ちっともロマンチックじゃない。速さを自慢しているだけじゃないか。
心の中でブツブツいいながら、電車に乗り込んだ。刈谷駅まで間に三つの駅に止まるだけだ。おそらく、68年前の急行「銀河」より停車駅は少ないだろう。冷房の効いた車内から、窓の外のうつりかわる景色を眺めるのは、わたしの至福の時だ。本もスマホもいらない。

刈谷駅から東へ500メートル。東海道本線と名鉄三河線が立体で交叉する地点。わたしは、刈谷駅の案内板で確かめてから、線路沿いに歩きはじめた。
さいわいなことに空は薄い雲におおわれ、炎天ではなくなった。それでも暑い。

宮城道雄の事故死から2年後、百閒先生は供養塔を訪れている。そのときは、白木の塔だったという。
当時とおそらく同じところに、供養塔はあった。民家の広い庭のように、よく手入れされた境内。『楽聖宮城道雄先生供養塔』と刻まれた石碑と供養塔。お地蔵様も立っている。供養塔の前には花も手向けられている。点字の案内板もある。宮城道雄は、光を失った人たちの、大きなひかりだったにちがいない。

百閒先生は、書いている。歳月の流れは速い。宮城道雄の遭難も、すぐに「ほんに昔の昔の事よ」になるだろう。そうなっても、ここに縁日が立っていたらいいな、と。
縁日はなくとも、供養塔は手入れされ、花を手向ける人もいる。人々の努力があるのだろう。宮城道雄遭難の記憶は、歳月に流されてはいなかった。

わたしは、帰りも快速電車に乗った。通勤電車かと思うほど混んでいた。立っている人も、スマホを見ながら揺られていた。倍の時間はかかるだろうが、普通電車でゆったり座って帰ればよかった。後悔しながら外の景色を見ていたら、清流とはお世辞にもいえない川で、泳いでいる人たちがいた。川の水がきれいかそうじゃないか、かまっていられないぐらい暑い日なのだ。






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