「かわらない」こと。

結婚して3ヶ月経つ。

私はいつも
妻として、ヨメとして、
何かしらのステレオタイプに押しつぶされそうになりながら、
きょうまで毎日生きていた。


ヨメは帰って温かいご飯を作って
ダンナを出迎えるべき

妻だから旦那の身の回りの世話の
細かいところを見てあげなくちゃいけない

そういう、大きなことから小さなことまで

「働かなくてもいいよ」

ありがたいように思えるその言葉も
私にとっては重かった
私は自由になった途端、何も感じなくなった

働くことは好きだ。
人と接する社会に出ることで元気をもらい
自己肯定感を得られることも理由の一つだが、
そこに価値をあまり感じなくなった今は
一社会人として社会に参加している、と感じる
うーん…言い表せられない気持ちがある。
それが、わたしは好きだ。

しかし働きすぎると、疲れが出る。
好きなことはあまり手を抜けない性分。
前向きに働き、仕事が好きになると
疲れてしまい家のことが立ち行かなくなる。
そうして、ステレオタイプに縛られていた自分は
大変申し訳なく思う、
妻として、嫁として、失格だ、と。
それを今の今まで、ずっと繰り返しつつ
そうじゃないそうじゃない、と自分に言い聞かせていた。

それでも頭の中にこびりついていた。
働かなくてもいいのに敢えて働く、
それは一種の自己実現であり、
とってもわがままで、贅沢なことなのだ、と。
脳内でずっと悪魔のようなものが囁いていた。


そんななかで
フォローしているインスタグラマーさんのなかで新婚さんや産休明けの方の投稿を見て気づいた。


「家のこと」は好きだ。
いわゆる家事と呼ばれるようなことも、
細かい「手しごと」も、事務的なことも
趣味の一つであるインテリアや収納を考えて、おしゃれで、落ち着いて、快適に暮らせるようにすることも、もちろん好きだ。

だけど、仕事にも誇りを持って
一人前として仕事がしたい、と思う。

私がいろんなステレオタイプから離れて
妻でもなくヨメでもなく誰かのサポート役でもなく配偶者でもなく
ただ「一個人」としてみてもらえる場所、それが職場。

私には、それが必要だった。
今も、これからも、必要。

職場は、わたしが、わたしらしく、いられやすい場所。

(ここで「わたしらしくいられる」と表現したら職場以外ではステレオタイプに縛られている、
という意味にもなりかねないので。)

仕事をして、一社会人として、認められている場所。

私にとって、とても大事だ。

それと…働かなくてもいいよ、と言われたが
正直、まだまだ片付かない家の中を整えたり
ストレスを減らして健康な生活を目指したり
私の趣味ややりたいことを進めるには
私が働かないと、足りないと思っている。

そうだ。働くんだよ。

働いていい、じゃなくて、働くの。

最近、短期の仕事でご一緒した
歳の離れたお友達からのLINE
「若いうちは働いときなさい!若いんだから」

そう言う彼女は歳を気にせずにおしゃれをし、
自分で運転して遠くまで出かけて、
(それもかなりの出かけたがりの私がびっくりするような距離をヒョイっと)
綺麗なグレーの髪に紫のグラデーションを入れて
まだまだよと笑顔で言いながら
働きつつ、休みつつ、
やりたいことを楽しんでいる。

私もそうありたい。

働こう。前向きに。

誰かのステレオタイプなんて取っ払って。
私は私であるために、はたらく。
現実にも必要だから、はたらく。

働いた分、楽しめることを感謝して、楽しもう。

ステレオタイプに縛り付けられて
毎日焦って家事をして
悲しみが増してイライラしていたから きっと
パートナーから「窮屈そう」という感想を
頂戴したのだろうな。

どこにいても、誰がなんでも、わたしはわたし。

誰かのヨメであるまえに、妻であるまえに、
○○家の一員であるまえに、
アラサー女子であるまえに、

わたしは、神様に作られたひとつの存在。

わたしはわたしをまもる。

いい意味で、我を貫く。

いいんだ。無理して変わらなくて。

そのままでいよう。
変わらないで、いよう。




こんな私をサポートしてくださるなら、泣いて喜びます。ぜひ一緒にお茶でもどうですか。