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三木清さんの文庫を読みながら

ふと文庫を読んでいて、一文に出会う。

自分が考え抜けない点や、日常ループしていたものがスコンと抜けるような感覚。
そういう体験が内部にあることが楽しく、本屋に向かっている節がある。

読みながら、感じたことを書いてみたい。

「健全な胃をもっている者が胃の存在を感じないように、幸福であるものは幸福について考えないといわれるであろう。」

健康な人は、病を予防する類の情報や本は読まない。

才能がある人は自覚としてそれに気づかないことが多い。本人にとって特別なことではない。

愛や幸せについて見解しない境地。
そんなとき愛や幸せそのものである。

自覚なき幸せにもなり得るから、たまに人生で痛みや苦しみに出会うのだろうか、などと思った。

死は観念である、と私は書いた。
これに対して生は何であるか。生とは想像である、と私は言おうと思う。(中略)想像的なものは非現実的にあるのではなく、却って現実的なものは想像的なものであるのである。
現実は私の構想力(想像力)の倫理に従っている。
人生は夢であるということが誰が感じなかったであろうか。それは単なる比喩ではない、それは実感である。
夢あるいは空想的なものの現実性を示されなければならない。

生きるとは、想像力(構成力)。まさしく。

確かに、この世で夢を叶える人達を考えてみるとヴィジョンや夢の抽象的な言葉で留まらず、それを構想する力が細部にまで及んでいる。

それは具現化の力だ。
すごく意地悪な言い方をすると《既存》の不可能やウソを、マコトや事実に変える力なのだと思う。《未知》を事実にする力。

「イメージング」を「構想力」に置き換えてみる。

未だ見ぬものに形を与えるとき、構想力が必要というのはとてもよくわかる。よく巷で聞く、カタカナ言葉の「叶えたいならイメージングしましょう」より私はしっくりきた。

私は、イメージングは「未知を描く(ヴィジョン)」力だと思っている。その最も崇高で最善な最終形態を、絵のよう描く。捉えること。それをイメージングだという捉え方だ。しかし、イメージングとして捉えた時は、「ヴィジョン」は描けるが、そこへ向かう手順や道のりは描きが弱いのだ。完成された静止画のようなイメージ。

だけど、「構想力」として捉えるとどうだろう。
その「ヴィジョン」を組み立てていくにはどんな要素が必要なのか、どのようなものたちで成り立っているのかまで見つめることが出来きる。
静止画だった絵が、細部まで動きをもち知らせてくれるイメージだ。


構想と構成のちがいを考える

「構想」とは...
《ものごとの全体としての内容、それを実現するための方法などについて、考えをめぐらし組み立てること。その組立て。》とある。

具体的なディティールまでイメージ出来れば、それをマコト化する道順や手順などはその構想力が教えてくれるだろう。

ちなみに「構成」とは《まとめること。もしくは組み立てること。バラバラになっている部品を繋ぎ合わせ、ひとつの構築物にまとめあげる。》だった。

「構成」は既知の情報やイメージが大量にあるとき、いいなと思う。

例えば「構想力」と「構成力」の違いを
4コマ制作過程であらわすなら。


◾️構想力
四コマ漫画の“起承転結”の結から
決めて必要なネタを思いつきながら
1コマ目から繋いでいく力

◾️構成力
“あれもしたい”“これもいれたい”というような
既にあるネタを、4コマ目まででに
何とか落とし込み完結させる力


こんな感じ。


未知の錬金=構想力
既存の整理整頓=構成力

と自論でまとめたいと思う。

三木清さんは、構想力そのものが生と述べられている。ということは、生きる実感や躍動は、描く力である構想力にあると言ってもいい。

生きる喜びは、私たちの中にあり、
誰も奪うことは出来ない。


言葉の力を借り、観点や眺める視座を変えることで
思わぬ広がりがある。最初にも書いたけれど、こういう広がりがあるのが本の素晴らしいところだと感じている。

そしてこれからも、その一文は続く。

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