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宿災備忘録-発:第4章3話①

空間から言葉が消えて間もなく、白馬の嘶きが響いた。素早く反応した久遠は裸足のまま小屋を飛び出し、すぐに立ち止まる。美影も裸足で外へ。
 
小屋の前にフキの姿。厩から戻ってきたばかりなのか、両手は土で汚れている。顔は強張り、微かに震えているように見えた。
 
「みこさまが……あねさんらをよんでる」
 
震えた声。繰り返される嘶き。美影はフキのもとへ。久遠は白馬の声のするほうへ。
 
厩への道標は、フキが作った歩幅の狭い足跡。それを踏みながら久遠は進む。美影はフキの手をとって、久遠の背中を追った。視界を遮っていた霞は消え去り、まるで久遠を見失わないようにとの計らいのようで、かえって不気味。
 
久遠が屋敷の角を曲がり、美影の視界から消える。途端フキは駆け出した。それを追い、美影も走る。屋敷の角を曲がってすぐ、見覚えのある景色。屋敷の入り口。背を向けた久遠。向かい合っているのは、白馬を横に従えた存在。顔には面。白狐か、白兎か。
 
「あの人が、巫女様?」
「んだ」
 
白衣に朱袴姿。地面に届きそうな黒髪。小柄で、ほっそりとした輪郭。白に覆われた庭園で、朱と黒は異様に映える。
 
立ちすくんだ美影の隣に、フキが寄り添った。そして小さく、
 
「みこさまは、あんなふうではねがったんだ……」
 
美影は呟きに視線を落とした。フキの目元には涙が滲んでいる。どういう意味かと美影が問いを投げるよりも速く、白馬が大きく嘶く。それをいさめたのは巫女の手。白いたてがみに手を這わせながら、僅かに首を傾げた。
 
「此処に、なんの用だ」
 
面に妨げられてはいるが、声は確かに美影のもとにも届いた。美影の中、夢で聞いた歌が流れ出す。
 
 
――声が似ている
  もっと聞かせて
  ちゃんと確認したい
 
 
逸る気持ちが、美影の足を動かす。しかしフキの手がそれを制した。行かないで、というように、フキは首を横に振る。更に、
 
 
まだくるな
そこにいろ
 
 
久遠の声。それはフキの心にも届いたのだろうか。小さな手は、美影の手を強く握り絞めた。久遠は刹那、美影を振り返り、すぐに視線を巫女に戻す。
 
「山神の庭の住人らしき者の遺体が、九十九山で見つかった。思い当たることは?」
 
密やかな声に巫女は薄い笑いを返す。そして、屋敷の中へ。巫女の背中が屋敷の奥に消えると、久遠は美影達を振り返った。走り寄り、美影は屋敷の中に視線を。もう、巫女の姿はなかった。
 
「行くぞ」
 
動き出した久遠。しかし美影は、その場に立ち尽くしたまま。
 
「……恐ろしいか?」
 
久遠の問いに、美影は首を横に振った。確かに不気味ではある。できれば近づきたくはない。しかし、知りたい真実は、すぐそこにある。ここにきた意味を、美影は掴みかけていた。だからこそ、心の底から湧き上がってくるものがある。
 
「……ここになにをしにきたのか、忘れるな」
「なにをしにきたのか……真実……真実見つけにきたんだよ私は!」
 
思わず大きな声を出してしまった自分に戸惑い、落ち着いてと語りかけながら、美影は息を吐いた。
 
「宿災、結界、時の流れが違う別の空間……信じようと思っても、そんなのあるわけないって。でも私自身がそれだし、そこにいるし、久遠も一緒だし、もう信じるしかないんだって……久遠や灯馬が言っていることも、見せられたものも全部、全部信じてここまできたのに……本当の目的を話したら私が逃げ出すとでも思った? それとも言えなかった? 私が悪いのかな? 私が言えない雰囲気作って、私が」
 
突如、美影の感情の急流が堰き止められる。口元を覆うのは、久遠の手。骨ばった人差し指が鼻にかかり、息ができない。長い五指は、がしりと美影の顔を掴んでいる。
 
 
――放して!
  苦しい!
 
 
美影は両手で久遠の手を掴んだ。引きはがそうとするが、ぴたりとして動かない。
 
 
――放してお願い!
  苦しい!
  死んじゃうから!!
 
 
声にならない懇願は、ただの呻きとなって空間に消える。美影は両手を久遠の体に打ちつけた。その手から力が失われる寸前、久遠の手が口を放れ、冷たい空気が美影の中に入り始めた。
 
激しく咳き込む。心臓の働きは最高潮に忙しい。とにかく今すぐ、五指の隅々まで酸素を送りたい。美影は雪上に身を投げ出した。空に向かって呼吸を。空間にある酸素を全て、取り込んでしまいたいほど。
 
「おら、みず、もってくっから!」
 
フキの声は足音とともに遠ざかる。それを追って顔を傾けると、美影の頬に冷感が触れた。
 
雪が冷たい。当たり前の感覚が体全体に戻っている。走り続ける鼓動を携えたまま、美影は上半身を起こした。背中から入り込んだ冷感は、既に全身に回っている。
 
雪上に、半袖、ジーンズ、裸足。このまま留まった場合、自分の身に何が起きるのか。容易に想像できる結末に、美影は別の寒気を覚えた。腕に付着した雪を払い落とす。あらわになった皮膚に鳥肌。美影は両膝を抱え、自らの体温で暖をとった。
 
「落ち着いたか?」
 
高い位置から注いだ声。美影は膝を抱えたまま沈黙。ただ細かに震える塊となった美影の前で、久遠は身をかがめ、膝を地面についた。
 
「お前が言いたいことはわかっている。いや、わかっているつもりだ……お前を導くのも目的のひとつ。それは、本当だ。俺も灯馬も、己の使命として、宿災と向き合っている。だが、父親のことを、もうひとつの目的を隠していたことは、謝る。すまなかった……」
 
頭を下げた久遠。美影は、カタカタと音を立て始めた奥歯を噛みしめ、じっと、久遠の黒髪を見据えた。言葉が出てこない。怒りか、悲しみか、悔しさか、判別のつけられない感情が、胸につっかえている。
 
「言いたいことがあれば、全部聞く。怒りがおさまらなければ、さっきよりも強く殴ればいい。だが今心を閉ざすことは、災厄に背中を向けるのと同じ。それが何を意味するかは、わかるよな?」
 
久遠は顔を上げ、美影と視線を合わせた。その視線を避けて、美影は顔を伏せた。
 
美影の体は既に五指の末端まで冷え、つま先の感覚も失われていた。このままではいずれ、血流も拍動も失う。それを理解してなお、美影は首を縦に動かせずにいた。
 
 
「都合のいいヤツだと思うだろうが、一度信じたのなら、もう一度信じてくれないか? ここにいる間だけでも……頼む」
 
久遠は再び頭を下げる。美影は顔を伏せたまま、その気配を受け取った。
 
 
――見えないのに
  思いなんて見えないのに……
 
 
頼む。その言葉は真実。しかも、強く、そう願っている。久遠の抱く感情は、気宿石を介して伝わったのだろうか。それとも、直接心に刺さったのだろうか。いずれにせよ、拒むことをはばかられる強い思いであるのは、間違いない。
 
美影は顔を持ち上げた。久遠も同時に。視線が交わる。久遠の顔にあるのは、真剣さと、微かな憂い。これまでで、一番表情豊かな面持ち。そう感じ、美影は思わず驚きの表情を浮かべそうになった。しかしそれを制し、口を開く。
 
「……普通、あんなことする?」
「あんなこととは?」
「相手の言葉を止めるなら、黙れって大きな声出すとか、頬を叩くとかあると思う。いきなり口塞ぐなんて……バカなんじゃないの?」
「馬鹿なりに考えた……すまなかった」
「ごめん、バカは言いすぎた……えっと、ああいうのは……不器用にも程がある」
 
言って美影は微笑んだ。持ち上がった口角は震えを隠せない。両手を口元にあて、息を吐く。
 
「あねさーん!」
 
フキの声と足音。美影はなんとか手を持ち上げ、フキに手を振る。その正面で、久遠は立ち上がり、黒いシャツを脱ぐと。美影の体を包み込むように、フワリとかけた。
 
「大丈夫だ。すぐに元に戻る」
 
頷き、久遠の黒シャツに袖を通し、美影は立ち上がった。
 
フキから受け取った水で喉を潤し、美影は、ありがとう、と笑顔を見せた。空っぽになった湯飲みを返しながら、見上げてくる少女の存在について考える。
 
 
この子はどうしてここに?
まさかこの子も普通ではない?
宿災?
もし宿災だとして
このまま巫女のもとに?
危険かもしれない
逃げてと言う?
理由を問われたら?
 
 
見上げ続けるフキに、かける言葉を見つけられず、美影はもう一度、ありがとう、と言って、フキの頭を撫でた。
 
「ひとつ、頼みがあるんだが」
 
久遠の突然の響きに驚いたのか、フキは美影の後ろに身を寄せた。久遠は静かに膝を折り、フキと目線を合わせる。
 
「屋敷を出て、しばらく歩いたところに草原があるのは、知っているか?」
 
問われたフキは頷きを。
 
「そこに忘れ物をした。悪いが、探してきてくれないか?」
「……どんなもんだ?」
「小さな石だ。薄い水色で、楕円形……細い鎖がついているから、見つけやすいとは思うが」
 
いつもよりも若干明るめの声で、聞き取りやすく。久遠の口から放たれた言葉に、美影は思わず胸に手を伸ばした。久遠がフキに伝えた特徴は、自分のTシャツの内側に存在する物と同じ。
 
おそらくこれから危険が訪れる。久遠はそれを予感し、フキの身を案じているに違いない。察して美影も、フキと視線を合わせた。
 
「その石、私のなんだけど、ここにくる途中で落したみたいで……私達、巫女様に大事な用があるんだ。だから申し訳ないけど、フキちゃん先に行って、探してもらってもいい? 用が済んだら、私達も行くから」
「……わがった」
「ありがとう」
 
フキは湯呑を屋敷の入り口に置くと、一度大きな笑顔を見せ、走り出した。すぐに足を止め、振り返る。
 
「あのな……みこさまは、ほんとうは、あんなでねえんだ……あんなではねがったんだ、だから……たすけて。たすけてな!」
 
力強く言葉を結び、門に向かって走り出したフキ。その姿が消えないうちに、久遠は白馬に歩み寄った。鼻筋を数回撫で、声をかける。
 
「お前も行ってくれ。あの子を頼むぞ」
 
白馬は真っ黒な瞳を久遠に向け、鼻を鳴らし、ヨシの足跡を辿り始めた。
 
空間からふたつの熱源が去り、雪の静けさは更に冷涼な気配となって押し寄せる。庭園には再び霞みがかり、屋敷の入り口だけが、妙にくっきりと姿を見せている。
 
 
早くこい
 
 
そんな意思表示にも見えた。
 
「巫女は門を閉じるだろう。あの子も馬も、ここに戻れない。安心しろ」
「うん」
 
美影は屋敷で待ち構える巫女の姿を想像しながら、胸元の石を掴んだ。これを手放す時は、すぐそこに迫っている。


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