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宿災備忘録-発:第2章2話

山護は、九十九山を守る人の呼び名です。
その由来となった民話を紹介しましょう。
 
***
 
昔あった話です。湖野の町に飢饉が続いたそうです。そんな時、えらいお坊さんの夢に山の神様が出てきたそうです。
 
嫁を3人くれたなら、湖野は豊かになると言ったそうです。お坊さんは急いで娘を3人集めたそうです。湖野で一番賢い娘。一番可愛い娘。一番気持ちの優しい娘。
 
いざ山に向かおうとした日の朝、賢い娘は山の向こうの町に勉強をしに行くといっていなくなり、可愛い娘は好きな男と行方をくらまし、気持ちの優しい娘だけが残りました。残った娘は、2人の分も山神様に尽くしますと言って、山に入ったそうです。
 
後に娘は巫女として山を守り、湖野には穏やかな日が続くようになったそうです。
 
***
 
 
「この伝承が山護に繋がってるってことだよね。おばあさん、重責を果たしたんだね。山神に仕える巫女なんて、なんだかカッコイイ」
 
ワンボックスに揺られながら、中森は観光案内用のパンフレットに落としていた顔を上げた。そこには大きな笑み。美影は素直に嬉しかった。香織も同じように感じたのか、中森に友好的な笑みを向ける。
 
「美代さんはね、九十九山で行われる神事も仕切ってたんですよ。って言っても、見たことはないんだけど」
「そうなんですか?」
「神楽みたいに人前で振る舞うのとは違うみたいで……美影ちゃんも、見たことはないんでしょ?」
「はい。そういうのは、ひとりでするものだって言っていました。神様にだけ、お見せするんだって」
 
美影は、山護としての祖母を語るのが好きだ。故人だから、と気遣う者もいるが、湖野の特別な存在というかたちで祖母の存在が伝えられていくのなら、話さない理由はない。
 
「そろそろ道が悪くなるから、揺れに気をつけてね」
 
香織の予告通り、車は荒い砂利道へ。
 
山肌をなぞるカーブ。道を覆う木々のアーチ。枝葉の隙間を通り抜けた光は、地面に斑模様を作っている。道の向こうまで続く、不規則な斑点。
 
久しぶりに目にする光景に、刹那恐怖を感じ、美影は斑模様から目を逸らした。代わりに捉えたのは、道端に佇む木製の電柱。
 
既に役目を終えた電柱。つる植物に覆われ、遠目から見たら、人工物とはわからないかもしれない。
 
――人が作ったものは、いつかみんな消える
  人間も同じ
 
車が電柱の横を通り過ぎる、ほんの一瞬。美影は、祖母の言葉を思い出した。わずかに涙腺が疼いた。
 
いくつものカーブを制覇し、車は砂利敷きの広場に進入。香織は手馴れた様子でハンドルを操作し、木陰に車を停めた。
 
「さて、ここからは大変よ。この先、自動車が入れないから歩きます。貴重品以外は置いといて大丈夫」
「なんかわくわくしてきた」
 
香織が念を押したにも関わらず、中森はリズミカルに体を揺らしながら車を降りる。街歩き用のリュックを背負い、辺りに忙しく視線を飛ばす姿は、まるで遠足に来た小学生。
 
美影もリュックを背負い、キャスケットを被って助手席のドアを開けた。同じタイミングで、久遠が砂利に足を下ろす。無言で車を降りた久遠。メッセンジャーバッグを斜めがけにし、静かにドアを閉め、木陰に向かって歩を進めた。
 
午後になり、湿気を含んだ暑さは足元にも絡みつく。熱気とともに体を包み込むのは、蝉達の大合唱。僅かな命を削りながらの自己主張が、とめどなく耳に流れ込む。合唱が聞こえすぎて、美影はうるさいとも思わなくなっていた。むしろ、この場に人間が存在していることのほうが不自然。
 
湖野を長く離れていたせいか、美影は圧倒されていた。自分を取り囲む緑の量に。そこに息づく命の数に。
 
どう表したらよいのかわからない焦燥感。幼い頃から味わった感情。それを振り払うように、美影は視線を遠くに飛ばした。
 
木立の切れ間に浮かぶ山峰。それを包む緑の絨毯。歪に落ちた雲の影。自然が描く絵画。唯一無二の秀作。
 
「美影ちゃん、先頭お願いできる?」
 
クーラーボックスを提げた香織に、小さく返事を。
 
木陰から出た久遠。その隣に、鎖火の姿。鎖火は美影に向かって手を振った後、余韻を残さず姿を消した。美影は香織の横顔を確認。鎖火の存在に気づいた様子はない。複雑な安堵。こっそりため息を吐き、美影は進むべき道へと、足を動かした。
 
かろうじて道と呼べる道を進むこと、およそ20分。左右の視界を塞いでいた木立が途切れ、砂利敷きの広場が現われた。
 
広さはテニスコート程度。その先には石造りの階段。表面を苔で覆われた石段の両脇には、濃緑の葉を携えた木。
 
美影は広場を進み、階段の前で立ち止まると、両脇の木を一瞥し、深く頭を下げた。顔を正面に戻し、右に寄って振り返る。
 
「これから山に入りますって意味で、みんなここで一礼するんです。決まりなんで、お願いします」
 
頭を下げた美影に中森は笑顔で答え、石段の前に歩を進める。香織から預かったクーラーボックスを足元に降ろし、深々と頭を下げた。下げた頭を戻すと、中森は左脇に立った木に近づき、じっと葉を見据える。
 
「これって神棚に置いてある木だよね。サカキだっけ」
「ヒサカキです」
 
中森の問いに答えたのは、久遠。久しぶりに聞こえた涼し気な音に、全員の視線が向かう。
 
「ヒサカキって、サカキとは違う物?」
「寒い地域でサカキは育たないんです。サカキは神の領域と人間の領域との境界を表す木。ヒサカキでも祀る気持ちは同じ。つまり、ここからは神の領域です」
 
中森の更なる問いに、久遠は迷いなく答えた。その声は、まるで体温を感じさせない。真夏の世界にいることを忘れてしまいそうな、静かな気配。
 
久遠は石段の前に進むと、バッグを足元に降ろし、頭を下げた。
 
全員が挨拶を終えたのち、苔生した石段をのぼる。その先には、整地された広場があった。広場の左奥に建物。周囲を木々に囲まれ、今にも隠れてしまいそう。美影はそこに向かって足を進め、扉の前で足を止めた。
 
玄関前。庇の下には剥き出しの電球。古めかしい木枠の引き戸に鍵穴はない。表札も見当たらない。ただいま、と小さく零して、美影は木枠の引き戸に手をかけた。
 
レトロな模様の曇りガラスは、独特の音を奏でる。現れたのは暗い玄関。懐かしい匂いに嗅覚を刺激されながら、美影は足を進めた。ひっそりとした土間。外よりも足元の温度が低く感じる。
 
「おじゃましまぁす、って……うわ……想像以上に映画のセットっぽい」
 
美影の背後。中森の気配は楽しそう。
 
「ホント純日本家屋って感じだね。貴重なんじゃないのコレ?」
 
ボリュームを上げた中森の声。美影は無言で振り返った。
 
室内を見渡しテンションを上げている中森と、何やら説明をしている香織。もう一人の存在は、玄関の外に。
 
久遠は玄関に足を踏み入れず、広場に佇んでいた。相変わらずの無表情。目の前の景色に興奮する気配など、微塵もない。
 
美影は意識を室内に戻し、上がり框に手をついた。障子を開ける。古家の匂いと侵入した夏の気配が混ざり合う。
 
板張りの床。ぽっかり空いた掘り炬燵の穴。柱に取り付けられた振り子時計。止まった針は、美影が家を出た時のまま。
 
 
――あの時のまま。なにも変わっていない……なにも
 
 
その現実が、美影の涙腺を更に刺激する。
 
「美影ちゃん?」
 
背中にぶつかった声は、この場所を守ってくれている人のもの。美影は振り返らずに頷き、目元に力を込めた。涙が零れ落ちないことを確認した後、口を開く。
 
「香織さん……ここを守ってくれて、ありがとうございます」
「どういたしまして……おかえりなさい」
「ただいま」
「ほら、貴方のおうちよ。入って入って!」
 
香織の温かな手に背中を押され、美影は靴を脱ぎ、板間を軋ませた。
 
向こうの窓を開けてくる、と言って、香織は奥の間へ。雨戸を引く音が聞こえ始めると、中森は茶の間を見渡し、数回頷きを見せた。
 
「ちゃんと手入れがされているんだね」
「はい。本当にありがたいです。本来、私がやるべきことなんですけど」
「色々あるからね、働いていると。ここまで帰ってくるだけでも大変だもの。僕は田舎がないから羨ましいけどね」
 
そんなものだろうか、と頷きながら、美影は久遠に視線を振った。しかしそこに、姿はない。
 
「さっきまで、あそこにいましたよね?」
「散歩かな」
「え、勝手に歩き回るのはちょっと……そのへん、見てきます」
「久遠君なら迷うようなことはないと思うけど」
「山道は奥で分かれているんです。山護しか行っちゃいけない道もあるので」
 
美影は素早くスニーカーを履き、玄関を出た。その背中を香織の声が追ってくる。
 
「これ持ってって。夕方まではまだ暑いから」
 
茶の間に戻った香織から、ペットボトルを受け取って、美影は広場を突っ切った。ぐるりと見渡したが、久遠も、鎖火もいない。灯馬も。石段の下も確認したが、そこにも姿はなかった。
 
美影は、緩やかな上り坂を進んだ。普段よりも若干足早に。全身が、徐々にざわめき始める。久しぶりに感じる、樹々の視線。キャスケットを家に忘れたことを悔やみながら、前へ、前へ。視線は低い位置へと落ちる。
 
山護の家から九十九山中へと続く道は、登山コースとして整えられた道ではない。代々の山護が、長い年月をかけて歩き固めた道。この道を行くのは、山護と、山を熟知したひと握りの人間のみ。
 
美影は物心ついた時から、祖母の背中を追い、この山道を歩いていた。湖野の中心部から離れた農村のはずれ。そこから更に山へと分け入った場所。近隣に民家はない。本来、人間がいてはいけない場所なのかもしれない。
 
虫の声、鳥のさえずり、羽ばたき。枝葉が風と遊ぶ音。それら全てに命が宿っている、と美影は祖母に教えられた。その膨大な数の命の中に、自分達も存在しているのだと。
 
美影は、それを聞く前から感じていたのだ。正体のわからない、なにものかの視線を。ただの勘違い、そうも考えた。しかし、湖野を離れ、都会に暮らしてからは、正体不明の気配など感じなかった。
 
 
――この感じ、宿るものと、なにか関係あるの?
 
 
久遠が言った、目に見えるものしか信じていない、というのは、半分正解で、半分間違っている。とっくの昔に、目には見えないなにものかに怯えていた。ただそれを、信じたくなかった。
 
美影は足を止め、ペットボトルを口に傾けた。むせ返る前に頭を戻し、再び視線を山道の先へ。行き着く先は、木々の屋根に覆われた山の奥。そこになにかが待ち受けている気がして、足が前に出ない。
 
「ほんっとに……どこまで行ったの?」
「こーこだよっ」
 
突然聞こえた声に、美影は短い悲鳴を上げた。聞こえた声は鎖火のもの。しかし美影の足元にいるのは、茶褐色のヘビ。
 
「わたしも飲みたい! ちょーだい」
「ちょっと……もうやめて、ホントに……心臓に悪いから」
「そぉなの? 早く慣れてよぅ」
 
ヘビは山道の上でとぐろを巻き、頭を天に向け、鱗に覆われた体を垂直に持ち上げる。円筒形の体は一直線になり、ヘビから人型へ。
 
「はいっ、いつものわたしだよ。それ、ちょーだい!」
 
美影の顔を見上げる、大きな黒い瞳。美影はまるで子どもと視線を合わせるように、その場にしゃがみ込んだ。
 
「あのね……こんな山の中で、他のヘビとの区別なんてつけらんないんだから……ホント勘弁して」
「りょうかいりょうかい」
 
両手を、ちょうだい、のカタチにした鎖火にペットボトルを渡し、美影はその場に座り込んだ。つい先程、ヘビのカタチの鎖火がいた場所。
 
鎖火は、その意思一つで生々しいヘビに姿を変える。
 
そんな馬鹿な。それが初めて目にした時の、当然の思い。しかも変化の能力を持った者はひとりではない。水輪も同じく、少女とヘビの姿を持っている。
 
なぜ彼女達はふたつの姿を持っているのか、問いに返ってきた答えは、即座に理解できるものではなかった。自分自身に宿るものについても理解しきれていないのに、更に他者についてまで。とても数日で消化できるものではない。
 
「美影、これ全部飲んでも平気?」
「え……うん、いいよ……あの人は?」
「そのへんにいるよ」
「そのへんって」
「こっちに向かってる」
 
鎖火の視線は、鬱蒼とした木立の奥へ。命の音に溢れた場所なのに、何故か静寂を感じさせる場所。その奥から、更に音を潜めた存在が姿を現した。
 
「おーい! ここ、ここだよぉ」
 
小柄な鎖火は大きく両手を振りながら、山道の上で跳ね上がる。気づいてはいるのだろうが、久遠は手を振って応えはしない。
 
足場の悪い山中にも関わらず、両手をジーンズのポケットに突っ込んだままの久遠。その足が山道に踏み込んだ途端、蒸した空気の中に、僅かな雨の匂いが混ざる。美影がそれに気づいたと察したのか、久遠は、雨がくるのは夜だ、と呟いて、美影の前に立った。
 
「この先には、山護だけに許された場所がいくつかあるようだな」
「そうだけど……なんで知ってるの? ここにきたの初めてでしょ?」
「教えてもらった」
 
久遠は視線を持ち上げた。数メートル上にある、太い枝。
 
視線の先。枝の上に黒い影が映り込んだ気がして、美影は目を凝らした。しかし存在を確認しようと意識した途端、影は消えた。
 
「美影、久遠行っちゃうよ」
 
鎖火が指差す方向。山道を進む、久遠の後姿。
 
「わたし先に行くねー」
「ちょっと……もう、自由すぎるでしょ」
 
息を吐き、美影はもう一度、枝を見上げた。確認し損ねた影の存在。頭の中に残った残像。もやもやした気持ちを一旦収め、美影は2人を追った。


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