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宿災備忘録-発:第2章3話

「僕、この匂い結構好き。おばあちゃんの箪笥ってイメージ」
「みんな言うわよね。不思議な匂いなんだけど、私も好き……ん、だいぶ薄くなったみたい」
 
香織が衣紋掛けから外したのは、夜神楽の踊り手が纏う衣装。山騒祭(さんそうさい)の前夜に披露される夜神楽は、山護自身が神に納める舞ではなく、地元の伝統芸能の継承という意味合いで、長い間踊りつがれている。衣装や楽器の一部は山護が管理するものとして、美代と美影が暮らした家に、今でも保管されている。
 
衣装に鼻を寄せ、納得したように、香織は数回頷いた。その姿を視界の端に入れたまま、中森は座敷の中に視線を走らせる。畳の縁に沿って並んでいるのは、締め太鼓、横笛、銅拍子。全て夜神楽で使われる楽器。
 
箪笥もテーブルもない、殺風景な座敷。中庭に面した縁側では、ぬるい風が緑を揺らしている。
 
「ここって普通のおうちって感じだけど、神棚って呼ぶのかな、大きな祭壇みたいな。ああいうのが、どーんって置いてあるのかと思ってた。あと白装束とか長い杖とか、頭に乗せる小さい帽子、みたいな」
「帽子?」
「山伏が頭につけている、アレ」
「あれは頭禁(ときん)って言って、山の瘴気から身を守るためのものみたい」
「ショウキ?」
「ええっと……悪い気、みたいなもの、かな」
「へえ、さすがに詳しいね」
「いえいえ」
 
美影が久遠を追って家を出た後、中森と香織は、他愛もない話を重ねた。いつの間にか敬語は消えていた。
 
中森は香織から、湖野の山岳信仰について話を聞いた。都会育ちの中森にとっては、まるでファンタジーの世界。この家も、町自体も。
 
「さて、こんなもんかな……美代さん、こういうの全部ひとりでやってたの。いくら役割とはいえ、大変だっただろうな」
「麓で預かってくれる人とかいないの?」
「うーん……九十九神社での神楽は特別視されているから、みんな消極的かな。ちょっと、怖いのかも。歴史がありすぎて」
「信仰、ってつくと重い感じになるのかな」
「そうなのかなあ……湖野では案外気軽に信仰している気がするけど」
「気軽?」
「おうちでお仏壇に手を合わせるみたいに、九十九山が見える場所で手を合わせたりね。仰々しく山へ修行へに入るっていう感じではないの。敬う気持ちはあるんだけど、表に強く出さないっていうか、遠くから、ありがたい姿を見つめている、みたいな」
 
自分の言葉に納得したように頷きながら、香織は押入れの中から木箱を取り出した。塗りのない、重箱のような雰囲気。
 
「随分年季の入った箱だね」
 
興味を示した中森の前に、香織は箱をふたつ並べ、蓋を外した。木箱に納められているのは、面。ひと箱にひと面。
 
ひとつは人の顔を模した面。男性のように見える。日に焼けたような顔色。目鼻立ちは控えめで、無表情に近い。
 
「こっちはなんのお面?」
 
ニホンザルを思わせる赤ら顔。大きく丸い目は、暗闇の猛禽類をイメージさせた。先端が丸みを帯びた高い鼻は、天狗の鼻と言ったほうがしっくりとくる。大きく開いた口には尖った牙。
 
「なんだかアジアの少数民族が持っていそうな雰囲気だね」
「初めて聞く表現! 確かに純和風とは言えないかも」
 
香織は、畳に寝かせた衣装の前に正座し、丁寧に衣装を折りたたみながら、夜神楽のストーリーを語り始めた。
 
「九十九山の夜神楽は、人間と動物の共存を表現したストーリーなんだけど、どっちかっていうと動物が強いの。山を守っているのは動物達で、人間はその領域に入れない掟だった。だけど様々な理由から、人間はどんどん山に立ち入っていく。動物達は人間達に敵意を抱いて、山を閉じようとするの。人間は必死でお願いする。どうか山に立ち入らせて下さい、山の恵みを分けて下さい、決して悪事は働きませんからって。そして山の動物達は人間の立ち入りを許す。最後は手と手を取って山神に祈るの。湖野に平和が続きますようにって」
 
話の終わりと同時に、香織は衣装を形良くたたみ終えた。それを風呂敷で包み込み、細い左手首に視線を落とす。
 
「美影ちゃん達、大丈夫かな」
 
香織の左手首。巻かれた時計は、美影が家を出てから1時間半が過ぎた事実を示している。香織の、不安を携えた視線が縁側へと向かう。
 
座敷と繋がった縁側。太陽は西に傾き始め、中庭から強い光が消えている。香織はそこに進み、視線を空に飛ばした。
 
「山って、あっという間に暗くなるのよね」
「携帯通じないし、僕も見てこようかな」
「私達はやめておきましょう」
「え?」
「久遠君って言うんでしょ、あの背の高い子。鷹丸さんから少し話は聞いているから……あの子と美影ちゃんなら大丈夫。変に迷うことはないと思う」
「そう、だよね……」
 
中森が言葉を繋ぐ前に、玄関の引き戸が音を立てる。視線が音の方向に移るより速く、2人の体は動き出していた。
 
上がり框に腰かける男。白いTシャツはところどころ汗で色を変えている。香織と中森に向けられた背中は広く、半袖から伸びる日焼けした腕は、明らかに日々筋力トレーニングを積んでいる人間のもの。頭に巻いた白タオルを剥ぎ取り、男は顔と首元を拭いながら振り返った。
 
「よお、香織お嬢さん」
 
放たれてすぐ地面に落ちてしまいそうな、重く、厚みのある響き。
 
「なぁんだ、鷹丸さんか」
「なんだってなんだよ……あ! シンちゃん久しぶり元気そうじゃんか。相変わらずの好青年だな」
 
振り返った男の顔は、一気に笑みに染まった。
 
力強い目元。顎に残る無精髭。日焼けした顔面に反比例する真っ白な歯を見せながら、鷹丸は中森にハイタッチを要求した。
 
「ホント久しぶりだね。鷹丸君も変わらない。相変わらず、黒いよ」
 
男2人の手が宙で重なり、空間に軽快な音が響く。鷹丸は満足そうに頷きながら、エンジニアブーツから足を抜いた。
 
3人は縁側に会話の場を移した。途中で香織は戸締りを、と場を離れた。
 
ごく小さな羽音に反応を示した鷹丸。慣れた様子で台所へ進入し、皿を手に縁側に戻る。皿の上には、半分欠けた蚊取り線香。既に火種がついている。独特の香りが縁側に立ち昇り、中庭へと流れ出た。
 
「夜神楽、シンちゃんも見るんだろ?」
「うん」
 
持参した缶コーヒーを空にし、鷹丸はベルトに通したポーチから、煙草を取り出した。薄茶色のフィルターを口にくわえ、左に座る中森に視線を投げる。中森の手は、どうぞ、と動き、鷹丸はライターに火を灯した。
 
蚊取り線香の香りとタバコの匂い。生ぬるい風はそれらを掻き混ぜながら、蝉の声を座敷に運び入れる。激しい鳴き声に織り込まれた、憂いある声。
 
「うわ、なにこれ……物凄く夕暮れって感じがする。ちょっと感動」
「さすがは都会っ子。ヒグラシの声に哀愁感じるなんてベタだな」
 
ふっと口角を持ち上げた鷹丸。中森は肯定も否定もせず、笑みを浮かべて息をもらした。力の抜けた横顔。そこに、鷹丸が放った少々わざとらしい焦れがぶつかる。
 
「で、俺はいつになったらスーパーモデルとご対面できるんだ? ここにいないってことは、久遠が連れ回してるんだろ?」
「まあ、そんなとこかな」
「相変わらずだな、アイツは……まあ、おとなしくコーヒー飲んで待ってましたって言われても気持ち悪いけどな」
 
鷹丸の口元。笑い声とともに放たれた煙。風に乗って空に昇る。
 
空の色は、表現に困るほどの複雑さ。夏の力強さをほんのり奪い、夜に向かって安息を付け加える。少なくとも、空色と名づけられた絵の具では表現できない。
 
「この年になるとさ、初めて見るとか初めて聞くとか、そういう感覚って子どもの頃よりワクワクしない?」
「何だよ急に。この年って年でもないだろ。まだ30代だぞ」
「うーん……何だろうね」
 
若干放心気味の中森をよそに、鷹丸はタバコを吸い終え腰を持ち上げた。
 
「便所行ってくる」
 
鷹丸の背中が廊下の奥に消えると、中森は何気なく座敷に視線を移した。空間を彷徨った視線は、動物の面に止まる。
 
箱の中で静かに時を待つ面。ふと視線がぶつかった気がして、中森は宙にぶら下がった紐に手を伸ばした。
 
指先に小さな抵抗を感じたが、二重の蛍光灯は、しんと静まったまま。案の定と思いながらも、中森は再度紐を引いた。
 
「ごめんなさい、今は電気きてないの」
 
突然鼓膜を揺らした声に、中森は小さな悲鳴を上げた。それにつられて、香織の肩もびくりと動く。
 
「やだ、驚かせちゃったみたい……ごめんなさい」
「ああ、いや、僕こそごめんなさい。びっくりしちゃって。恥ずかしいな……」
 
縁側を仄かに染める西日の中に立ち、ずれてもいない眼鏡の位置を整える中森。胸元を激しく揺さ振る鼓動を静めた後、笑みを作って香織に向き直る。同時に、廊下に足音。
 
「おい、なんだよ。シンちゃんの声で俺までビックリしたじゃねーか」
 
大きな足音と共に、鷹丸が座敷に姿を現す。香織は、すみませんね、と言って、腕時計に視線を。
 
「もう行かないと……この道具、公民館まで移動させなきゃいけないの。美影ちゃん達まだ戻らないし……中森さん、どうする? 鷹丸さんと残るか、私と一緒に町まで行くか」
「お嬢さんひとりじゃ持てないだろ。久遠達が戻ったら電話するから」
 
言って、ひとり茶の間に移動した鷹丸は、薄暗い空間であぐらをかき、いってらっしゃい、と手を振る。
 
「じゃあ、あとよろしくお願いします」
「はいよ」
「中森さんは、あのお面、お願いしていいですか?」
「はい……じゃあ鷹丸君、連絡待ってるね」
 
中森はつとめて明るく声を出し、動物の面を見ないよう気をつけながら、箱にそっと蓋をした。


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