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宿災備忘録-発:第2章4話

太陽が西に傾く前に、美影は家に戻るつもりだった。しかし未だ山中にて、久遠の背中を追っている。そんな自分に苛立ちを覚えながら、美影はスマートフォンの画面に視線を移した。時間を確認するのは、これで3度目。
 
日没までまだ時間はあるが、太陽が傾き始めると、山中は予想以上のスピードで闇に侵食されていく。まだ平気、夜の到来と呼ぶには早い、そう油断し、気づけば辺りが見渡せないなんてことが、山では少なくない。
 
闇が木々の間を埋め、正体不明の音達に脅えるような事態には陥りたくない。雨の匂いが濃くなっているのも気になる。まだ、降りそうにはないが。
 
美影は前を進む背中に、鋭い音を飛ばした。
 
「どうしても今行かないとだめなの? 家に戻って山騒祭の準備も手伝いたいし」
「お前、なにをしにきたんだ?」
「それは、わかってるんだけど……」
 
久遠は振り返らない。会話は発展せず、ヘビの姿で2人を先導する鎖火の声が、空気を揺らすこともなかった。
 
山守の家に戻れば、鷹丸に会えるかもしれない。そんな思いもあって、美影の足は山中への進入を躊躇っている。鷹丸が石寄の身辺調査を依頼されたのが、ことの始まり。鷹丸は、湖野でどんな真実を見つけたのだろう。
 
 
それは本人に聞けばいい
 
 
鷹丸が持つ真実について尋ねた際、久遠は美影にそう言った。実にシンプル。鷹丸との対面を優先し、久遠を残して家に戻ることもできる。しかし、自分も行かなければならない気もする。
 
 
――これは私の意思? それとも
 
 
行かなければ、と判断したのは、自分か、災厄か。判断できるほど、自分の深部を覗けていない。だからこそ、久遠の行動の先にあるものが、気になるのだろうか。
 
道なき道を歩き続ける。大音量の蝉の声、下草を踏みしめる音。そこに自分の呼吸音が混ざり込み、美影は疲れを覚えた。
 
体から大量の水分が失われている。全身が湿り気を帯び、服が肌に密着して気持ちが悪い。だいぶ汚れたであろうスニーカーには、視線を落とす気にもならなかった。
 
「あ、見えた」
 
呟いた鎖火。その声が美影の鼓膜を揺らす。視線を投げただけでは、対象物を確認できない。1秒でも早く【その場所】に辿り着きたい。その思いが、美影の足を速める。
 
目的の場所に着いた時、美影の肩は久遠の右に並んでいた。
 
特別大きな杉の下。これまで歩いてきた場所より下草は少ないが、それでも鬱蒼と呼んで間違いはない。
 
「ここが……」
「そうだ」
 
美影の眼前にある巨木の下で、ミイラ化した遺体は発見された。遺体の発見は、およそひと月前。季節柄、下草も盛んに茂り、遠目で発見するのは困難だったはず。
 
警察が張り巡らせたテープが空間を仕切っている。少したるんだ黄色と黒の縞模様は、テレビドラマで目にするそれと同じで、かえって現実味がない。
 
美影は、遺体が発見された経緯すら知らない。久遠は、おそらく知っているのだろう。しかし今この場でそれを教えてくれと願っても、鷹丸に聞けと突き放されるに違いない。
 
美影、久遠、鎖火。みな口を閉ざしたまま、しばらく時が過ぎた。物悲しげに鳴いていたヒグラシが一斉に声を潜める。隙ができた空間に、枝が軋む音。
 
一度目は肩をびくつかせる程度に。二度目はごく小さく。数秒の間をあけて、枝葉がざわめく。頭上に、なんらかの存在。
 
「怖いか?」
 
体を強張らせた美影に、久遠の音がぶつかる。
 
「……怖い」
「相手を知らないから恐れを抱く。恐怖から逃れたいなら、相手を知ることだ」
 
頭上で更に枝葉が揺れ動き、振るい落とされた杉の葉が、美影と久遠の会話に割り込んだ。
 
美影は両手で頭を覆い、両目をきつく閉じた。そのまま顔を地面に向け、動きを止める。その傍らで、久遠の声が滔々と流れ出す。
 
「あそこにいるのは山に棲むもの達。みんな、お前に会いにきたんだ。これまでも感じていたはずだ、自分に向けられる視線を……しかしお前は、それがなんなのか確かめようとはせず、目を逸らしていた」
 
美影の中。流れ込む久遠の言葉。それを否定できない現実に、美影は拍を速めた。自分がこれまで感じていた樹々の視線。あれは、山に棲むもの達の気配だったのだろうか。
 
彼らは一体何者なのか。目を開き、顔を上げればいい。しかしそんな簡単な動きすら、今の美影には困難だった。
 
「そのまま見ないフリを続けるのか? 相手を知ることが必要かどうか、答えは出せるはずだ……お前に足りないのは、覚悟だ」
 
久遠の語気が強くなり、いつもの涼しげな気配が消えた。言葉に熱を感じる。
 
美影は、久遠の視線が自分に向けられていると感じた。目を閉じていても、相手が見えていなくても、久遠の意思を感じとることができる。それは、山に棲むもの達の視線と、どう異なるのか。思いを届けようという、強い意志。相違点は、自分が相手を知っているか、否か。
 
ゆっくりと顔を持ち上げた美影。両目は閉じたまま。深呼吸を繰り返しながら瞼を持ち上げる。
 
暗い。目を閉じている間に、夜は確実に近づいた。
 
怖い。闇を恐れる本能が、美影の覚悟をぐらつかせる。
 
「ねえ、美影」
 
美影の右手。触れたのは、鎖火の手。
 
「わたしみたいな混ざり者はね、だれかに見つけてもらえないと、人のカタチを取り戻せないの。だからわたし、久遠が見つけてくれた時、ものすごくうれしかった……だから美影も、ちゃんと見つけてあげて」
 
鎖火が、いつ、どんな状況で久遠と出会ったのか、美影は知らない。しかし、その出会いが鎖火にとって大きな喜びになったという事実は、真っ直ぐな視線と、芯のある口調から、確かに伝わってきた。
 
一段と大きな深呼吸を済ませ、心の中でカウントダウン。美影は視線を一気に持ち上げた。
 
「やっと、こっちみでけだなあ」
 
しゃがれた、老人のような声。鼓膜を揺らしたのか、脳に直接響いたのか、判断がつかない。
 
美影の目に映ったのは、3つの黒い塊。カラスよりは大きいが、サルよりは小さい。
 
半紙に垂らした墨汁のような、歪な輪郭。目と思われる丸が2つ、輪郭の上のほうで紅色に輝いている。他に、顔を思わせる部位はない。
 
「そごでしんでらったやつこな、やまがみさんのにわがらではってきたんだっけ」
 
声を発したのは、真ん中の塊。美影はそう判断し、視線を刺した。
 
「いぎものだのなんだの、にわがらいっぺえではってきた。おらだぢはにわさいぐ。いってなにがおぎでんのがみでくる。くんならおめもこい」
 
しゃがれた音はフェードアウト。3つの塊は、色を濃くした闇に溶け込んだ。
 
ざわついていた枝葉は静けさを取り戻し、ヒグラシの声が、再び樹々の間を満たし始める。
 
黒い塊が消えた枝を見上げたまま、美影は立ち尽くした。自分の目に映ったものを、信じて良いのだろうか。闇に慣れる途中の、目の錯覚かもしれない。しかし、確かに声を聞いた。
 
見たまま、聞いたままを真実とするなら、あれをなんと呼べば良いのだろう。妖怪。幽霊。違う。どのカテゴリーにも属さない。久遠が言った通り、山に棲むもの。そうとしか表現できない。
 
「何を聞いたんだ?」
「え、聞こえなかったの?」
「聞こえたが、わからなかった」
「あ、なまり?」
 
久遠は頷いた。その横で鎖火がぴょこんと跳ねて主張する。
 
「わっかんなかった! わたしも、ぜーんぜんわかんなかった!」
 
数分前に見せたしおらしい姿は、幻だったのか。
 
「ここで死んでいた男の人は、山神の庭から出てきた、って言ってた」
「山神の庭?」
 
反応を示した久遠に頷きを。
 
「生き物や色んな物が、庭からたくさん出てきたって……自分達は庭に行く、なにが起きているのか見てくる、くるならお前もこいって」
 
山に棲むものの言葉を訳し終え、美影は久遠の反応を待った。
 
数秒の空白を挟み、久遠の体が僅かに動く。その右足が規制線に向かい始めると同時に、美影は口を開いた。
 
「まだ奥に行くつもり? やめなよ、もうすぐ視界ゼロになる」
「……そうだな」
 
久遠はあっさりと踵を返し、美影は引き止めるために用意した言葉を、いくつか飲み込んだ。鎖火はヘビの姿に変わり、夜に沈みかかった林の中へと進み出る。
 
「先に行け」
 
簡単な言葉に促され、美影は鎖火の後を追った。
 
やっと帰れる。しかし足を前に進めれば進めるほど、靄に包まれた感情が、美影の中に降り積もった。自分で久遠を引き止めておきながら、気持ちの一部は、あの場に残したまま。
 
山に棲むものが発した言葉。その言葉の真意を、理解できていない。彼らが姿を消す前に問うべきだった。
 
 
――また、会えるかな
 
 
美影は、彼らの姿と声を脳内で再生しながら、家を目指した。


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