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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節  冬・壱1

 霜月は、昨日去った。空に青。日差しは柔らかく、ゆったりと流れる雲との調和が心を和ませる。深遠が維知香と暮らし始めて、一年と少し。その間一度も、深遠は【あちら側】に行かず、維知香とともに、季節の移ろいを味わいながら暮らしていた。

 昼を目前に、深遠は庭の北東の角で、地面を掘っていた。湿気を含んだ層に辿り着き、次の作業へ取り掛かろうと立ち上がると、乾いた空気に、ほんのりとした甘みが加わった。

 香りの源は台所にある。維知香が作る料理だ。さて、献立は何か。深遠が甘みの正体を探り始めた時、背後に気配。灯馬のものではない。確かな、人間の気配。

「……どこから入ろうと自由だが、できれば門からにして貰えると助かる。泥棒だと勘違いして、俺がこの円匙を振り上げるとは考えなかったのか?」

 振り返った深遠。視線の先に立つのは、悪戯な笑みを浮かべた道行。

「物騒なこと言わないでくれよ」
「冗談だ」
「冗談じゃなさそうな気もするけど……門から入ったんじゃ、きましたよって知らせるようなもんだろ。脱厄術師じゃない深遠を見たかったんだ。庭仕事姿、なかなかさまになってたぜ、ご主人」

 いかにも楽しそうに、道行は白い歯を見せる。

「つまらん真似を……どうしたんだ? このところ不穏な話は耳に入っていないが」
「俺の顔を見て不穏と結びつけるなんて、どういうことだよ。ちょっとひどくねえか? 弟子を信用してくれよ」
「すまない、そういうつもりではなかったのだが……俺の様子を見にというのが、本来の目的ではないだろう?」
「まあな……明るい話題じゃないってのは、違いない」
「そうか……少し待っていてくれ。着替えを……道行、食事は?」
「ん? こっちに戻ってからはまだだ」
「一緒に、どうだ?」

 深遠の誘いに、道行は驚愕を表現して見せる。嘘か誠か、と言いたげな面持ちのまま深遠の横に並び、ともに母屋へと向かった。

 二人は縁側から座敷へ。道行は奥方に挨拶を、と台所へ進もうとしたが、深遠によって止められる。

「まずは手を洗ってくれ。うがいも頼む。病に罹ってはいなそうだが、念のため、しっかり汚れを落としてこい」
「めんどくせえな、ガキじゃあるまいし……」
「道行」
「ああ、わかったよ……」
「手洗い場は向こうだ。終わったら真っ直ぐ、ここに戻るように」
「へいへい」

 道行は室内に視線を飛ばしながら手洗い場へ。深遠は今一度庭に出て、作務衣の土を払い、井戸水で手を清めた。

 戻った道行は、おとなしく座布団に腰を下ろした。落ち着かないのか、視線はそこかしこに移り、やがて茶箪笥に留まる。その中には、菊野から譲り受けた洋酒が。道行は素早く茶箪笥の前に移動し、触れずにじっと、瓶と向かい合う。

 深遠は着替えを済ませて戻り、洋酒と向かい合う道行を見つける。

「君は酒を呑むのか?」
「稀にな。まあ、あちら側にいたら一滴も……こっちに戻ってもめったに呑む機会がねえし、相手もな」
「……違う物で良ければ、少しどうだ?」
「おい、どうしたんだよ深遠。お前から飯も酒も一緒になんて、少し不気味だぜ……結婚してやっと、他人に慣れたってことか?」
「慣れる? そんなに俺は、他者を拒んでいるように見えたのか?」
「見えた! だから驚いているんだろ!?」
「大袈裟な……して酒は? 呑むのか、呑まないのか?」
「呑むに決まってんだろ! 深遠に誘われるなんて、今後あるかどうかわかんねえし」
「そうか。なら支度をしてくる。ここで待っていてくれ」
「何だよ、まだ奥方には会わせてくれねえのか……案外独占欲が強いんだな」
「黙って待て」


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