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宿災備忘録-発:第4章2話①

白馬が刻む、一定のリズム。美影は、鼓膜を震わせる小さな音を追い続けた。妙に胸がざわつく。この音が消え去るのが怖い。
 
美影の隣を歩く久遠は、黙っている。ほんの僅かではあるが、久遠の気配が研ぎ澄まされている気がする、と美影は感じていた。なんらかの危険を、予感しているのだろうか。
 
 
――もしもの時は私も祓いを?
 
 
美影は視線を手の平に。零念を祓うには、災厄と通じ、その力を貸してもらうのだという。祠の前で放った熱感は、自分と災厄の葛藤であり、災厄自身ではないと、灯馬は言った。
 
 
災厄にも意思があります
貴方が何故その力を使いたいのか、それを災厄に伝えることが重要です
思いが通じなければ、災厄は力を貸してはくれません
 
 
灯馬の言葉は具体的であり、至極抽象的でもある。言いたいことは理解できる。しかし理解できても、どうすればいいのかは、わからない。
 
 
直感と想像です
貴方が感じたことを、素直に災厄に伝える
貴方は、自分の中にその様を描けば良いのです
私が他者と同調する時もそうです
その人物に宿る災厄に、私の意志を伝える
伝えるという感覚を、描くんです
災厄はそれを受けて私を招き入れる
やってみれば、それほど難しくありません
 
 
柔らかな眼差しと口調。そして笑み。灯馬は伝授を終了し、祠の前に残った。
 
 
気をつけて、いってらっしゃい
 
 
 
ごく普通の、見送りの言葉。あれは緊張を緩和させるための、あえての行動だったのか。それとも、再び祠の前に戻ると疑わなかったからか。
 
 
――私達ちゃんと戻れるよね
 
 
足を進めるほどに、緊張が美影に纏わりつく。それは真実が近づく気配でもあり、心拍を速める厄介者でもある。緊張が混乱に変貌してしまう前に、なにかが始まって欲しい。なにかが、なんであるのか、早く知りたい。
 
美影の足。僅かに久遠の体を追い抜く。その瞬間、白馬は進行方向を変えた。真っ直ぐに伸びた砂利道を曲がり、白い玉砂利が敷き詰められた道へ。左右には背の高い杉並木。遮断された景色。閉塞感。白馬は歩くペースを崩さず、緩やかな上り坂を進む。
 
白馬は、どこを目指しているのか。美影はうっすらとした予感を持ちながら進む。久遠は口を閉ざしたまま。
 
玉砂利を踏み鳴らし始めてほどなく。美影と久遠の前に、人工物が現れた。門らしき建物。大きさはまだ微小で、はっきりとした様相は不明。徐々に建物に近づき、はっきりとその姿が見て取れた。武家屋敷の正門を彷彿とさせる、質素な色合い。華やかさはないが、厳かで敬虔な外観。
 
「つくも神が集まる屋敷……か」
 
美影の耳。流れ込んだ久遠の声。
 
つくも神達が集う、山中の屋敷。屋敷の中に設けられた広い座敷には多くの膳が据えられ、無人であるにも関わらず、何者かの気配に満ちている。そこに無断で立ち入った者は、罰として九十九日の時間を奪われる。
 
不気味で、何らかの格言を含んでいそうな民話。そんな話が当たり前のように根づいているのが湖野。話のひとつひとつに起源があるのだろうが、誰が、いつ、何処で語り始めたかは、わからない。
 
歩き進め、辿り着いた門の前。足を止めた美影と久遠。白馬は閉ざされた木戸に頭を押しつけた。木戸は開く気配を見せない。それでも諦めずに、白馬は鼻を鳴らし、後ろ足を蹴り上げる。
 
その姿を不憫に思ったのか、久遠は白馬の隣に歩を進めた。右手を白馬の頭の上に。骨ばった手は白い毛並みを撫で、馬の動きを制する。白馬は、ゆっくりと一歩、また一歩と下がり、気づけば美影の隣に。
 
白馬が去った門の前で、久遠は右手を木戸に向けた。そして動きを止め、沈黙。
 
 
――目を閉じた?
 
 
見えているのは、久遠の背面。にも関わらず美影は、久遠が目を閉じたと感じた。続いて、
 
「今から起こることを、しっかりと覚えておけ」
 
久遠の声。まるで耳元で囁かれているかのように美影の中に流れ込む。続いて体に、変化。
 
体の中
駆け巡る風の感触
それは瞬く間に右手に集結
手の平の中心
細かな痛みで描かれる真円
円を貫く鋭い衝撃
 
 
手の平から突風が飛び出したような感覚。完全に未知の体感。身に起こった現実を飲み込めない。
 
放心状態の美影の前で、木戸が突然押し開かれた。久遠は直接触れてはいない。白馬は美影の横にいる。
 
微かに香る、雨の匂い。雨雲は、ないはずなのに。空を仰いだ美影。その隣にいた白馬は開いた木戸の中へ。その姿が消え、久遠が振り返る。
 
「中に入るぞ。急げ」
 
自分を呼んだのは久遠の声なのか、視線なのか、それとも念なのか。いずれかの判断もつけられないまま、美影は駆け足で門の内側に身を投じた。
 
門をくぐった途端、空気は一変。広がる雪景色。鼻腔に刺さる尖った冷気と、雪の匂い。乾き切らないスニーカーは一気に体温を奪い、足元から這い登る冷感が、美影の体を硬くした。
 
「大丈夫だ。お前の中の災厄がすぐに適応してくれる」
 
大丈夫。久遠は簡単に言い放った。この雪景色も、始まると予感していた何かの一部なのだろうか。
 
美影の体は3分とかからず寒さを受け入れ、手足の五指からかじかみが消える。吸い込む空気は確かに冷たいが、喉が過剰に冷やされる感覚はない。唇に震えが広がることもなく、美影は、はっきりとした口調で久遠に問いを投げた。
 
「さっき私に、なにをしたの?」
「俺が災厄と通じる感覚を体感してもらった。参考までにな」
「あれが通じる感覚……でもどうして? 同調もしてないのに」
 
答える代わりに、久遠は小さく頷いた。そして足を踏み出す。踏まれた雪は圧迫に小さな声を上げ、この景色が現実であると主張。
 
白馬の蹄跡を辿り、歩を進める。周囲は積もる雪に隠れているが、それでもここが、見事な庭園であることは理解できた。
 
枝がうねった松や梅。屈折した枝に乗る雪は、余りに静か。低い生け垣に積もった雪は、角を失くした柔らかな輪郭。優しいようでいて厳しい静寂。それに包まれた木々は、まるで眠る彫刻。異常なほど静寂に支配された空間に、久遠の音が流れる。
 
「占爺がお前に飲ませた石。あれがなにか、教えていなかったな」
「え、今。って言うか今更?」
「あれは気宿石と呼ばれるものだ」
「きしゅくいし……灯馬が持ってきたのも、それ?」
「ああ。気宿石は、人間の気を宿した石だ。あの時の石には俺の気が宿っていた。だから」
「さっき私が災厄の動きを感じ取れたのは、それのおかげ?」
「そうだ。だが石に宿った気は、持ち主から離れれば徐々に失われる。お前が飲み込んだふたつ目の石も、直にお前と一体化する」
「自分の気が消えてしまう前に、災厄との通じ方を教えたってこと?」
「ああ」
「じゃあ最初に石を飲み込んだ時にも、なにか教えたかった?」
「まあ、そんなところだ」
「じゃあ、もっと」
 
早く言えばよかったのに。その言葉を発せずに、美影は口を閉じた。
 
 
――言わなかったんじゃない
  言えなかったんだ
 
 
無意識に、拒絶の気配を放っていたのかもしれない。そして久遠は、それを察知していたのかもしれない。芽吹いた罪悪感が、美影の右手を胸元に導く。
 
 
――もしかして
  この石も……
 
 
指先に触れた、硬い感触。ただの石でも、巫女の涙石でもなく、気宿石。もしそうだとしたら、この石に宿った気が自分を導いているのだとしたら。
 
美影の中に、石をくれた人の笑顔が浮上する。しかしその人は故人。それに、石を手にして既に20年近い年月が過ぎている。持ち主の元を離れれば、気は薄れると久遠は言った。
 
「石に宿った気が、ずっと薄れないなんてこと」
 
あるのかな。問いの最後に達する前に、2人は屋敷の入り口に辿り着いた。
 
白馬は困っているかのように、入り口の前を右へ左へ。追いついた2人に顔を向け、小さく鼻を鳴らした。
 
「馬は人の心を察するらしい。苦労も多いだろうな」
 
久遠が近づくと、白馬は道を開け、庇の下へ。そこで動きを止めた。
 
白馬が去った屋敷の入り口。引き戸は開け放たれ、縁側のように広い玄関が2人を迎える。脱がれた靴はない。平らに均された土間に、人の形跡を見つけられない。
 
正面には、閉じた真っ白な襖。襖の向こうに、つくも神達がいるのだろうか。思って、美影の拍動は全身に響き渡る。湧き上がる熱感。自身を落ち着かせようとする美影に、久遠の涼やかな響きがぶつかる。
 
「これを……飲み込まなくてもいい」
 
差し出されたのは、黒い皮紐にぶら下がった乳白色の石。久遠が身に着けていた、気宿石。万が一に備えて持っていろ。美影は、そう言われた気がした。
 
「ありがとう」
「ここは現実ではあるが普通ではない。もしはぐれたら屋敷を出ろ。そして遠くへ……充分気をつけるんだ」
「わかった」
 
 
――私がこれを持っていれば
  離れ離れになっても久遠は自分の気を辿れる
 
 
久遠の意図が、理解できた。しようと思えば、もっと早くにできたはず。相手に対し理解を深めるには、対話は不可欠。互いに必要なことだったのに。
 
 
――もう拒まない
 
 
反省を胸にきつく結び、美影は石を首から提げた。久遠に続いて靴を脱ぎ、屋敷に上がる。慎重に足を進めたい。そんな美影の心情とは対照的に、久遠は目の前にある襖を迷いなく開け放つ。
 
現れた空間は無人。何もない座敷。奥には閉じた襖。若葉色を背景に咲き乱れる桜。春の景色が描かれている。
 
久遠は躊躇なく歩を進め、ぴたりと閉じた襖に手をかける。開ける。次の空間も無人。進む先。襖に描かれているのは濃緑に煙る山。それも躊躇なく開け、次へ進む。迎えたのは秋の景色。紅葉に燃える山。続く部屋には、月明かりに照らされた雪山。一気に四季を通り抜けようと、久遠は薄明かりに浮かぶ山を両断した。
 
眼前に現れたのは、深緋の回廊に囲まれた中庭。庭園同様雪に覆われ、回廊にも薄っすらと白が身を横たえている。
 
「あそこを……」
 
久遠の視線の先。回廊の向こう側。対面に構える、大きな襖。
 
全体に施された極彩色。ここまで開け放ってきた襖とは明らかに異なる、怪しげな様相。美影の体に悪寒が走る。
 
「行くぞ」
 
久遠の響きは小さく、しかし明瞭に。刹那交わった2人の視線。迷うな。そう言われた気がして、美影は久遠の足音を踏みながら回廊を渡った。
 
眼前に迫った襖。描かれているのは、山に息づく動植物。所狭しと描かれた動物は、いずれも眼力鋭く、隙間を埋めるように描かれた植物は、絡みつく蔓のように、襖全体を這い回っている。鮮やかな色彩の中に陰りが潜み、妙に生々しい。
 
 
――つくも神の集う場所?
 
 
美影は、襖の向こうの景色を想像した。しかし、神の姿ひとつ描けないうちに、久遠の右手が襖に伸びる。その指先が襖に触れる寸前、回廊の一角に気配。


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