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自分で自分に「呪い」をかけてはいけない

 前回の投稿からだいぶ間が空きました。その間にも多くの方にnoteをフォローいただいたり記事にスキしてもらってとてもうれしく思う一方で、「全然更新できてないのにな…」と申し訳ない気持ちもあります。書きたいことはいっぱいあるのですが。
 この記事も書き始めてから書き終わるまで何ヶ月もかかってしまいました。読んでくださり、ありがとうございます。

 現在、発達障害啓発週間(~4/8)ですが、昨年に引き続き今回も私自身がASDについて「啓発される」話です。

 一時期、自分の発達障害の特性が定型発達者からどう見えるか、また違和感を与えてる場合はどこが原因なのかについて「気づき」を得るためにカサンドラ症候群を自称する人たちの投稿を積極的に見に行っていたことがありました。

 彼女たちのASDに対する指摘に影響されて一時期自身の特性に対して批判的なツイートばかりしてた気がします。
 しかし、最近になってそのような自虐的な発言がいつしか自分自身を縛る「呪い」となっていることに気づきました。非言語メッセージよりも「言葉」に人一倍影響されやすいタイプなので、私自身が発するネガティブな言葉によって思考が強化されてしまい、余計落ち込んでしまう悪循環に陥っていました。当事者の方からも度々「書き方に気をつけてください」と批判的なリプがつくようになったのもこの頃で、一時期はアカウントを消そうかと悩んだほどです。

 今思えば子供の頃から人前で謙遜するつもりで「私なんてまだまだ…」「私なんて大したことない」と口にしていた言葉が知らず知らずのうちに自分に「呪い」をかけてしまったようなところがありました。
 適度な謙遜は「謙虚」と好意的にみられますが、謙遜が「自己肯定感が高いゆえの心の余裕」から来るものでないと、謙虚さから一気に卑屈さに転じてしまう危険があると思います。

 昨年の一時期、Twitter(今は「X」というんでしたっけ)でカサンドラ(配偶者との情緒的交流の欠如が原因で心身不調を抱える人たち)陣営とASD当事者陣営の間で「論争」のようなものが起こっていました。以前の私なら自ら首を突っ込んで今までのようにASDの特性についてカサンドラの問題と絡めて得意げに投稿をしていたと思いますが、本来夫婦間の問題に想像で物を言っているだけの未婚者の私などが発信したところで誰にとってもメリットがないのでノーコメントを通してしまいました。
 とはいえ、TLに溢れる「ASDは他者の気持ちを感じ取ることができない」のような「主語の大きな」表現に対するASD当事者たちの複雑な気持ちは私も当事者ですからよくわかります。例えば、一部の男性アカウントによる「女性は物事を論理的に考えることができない」のような投稿がさほど気にならないのは、女性は全人口の約半数であり「全ての女性が論理的に考えられないわけではない」ということを多くの人は知っているので、わざわざ発信者に向かって「主語が大きい書き方はやめてください」などと注意する必要はないわけですが、ASDの場合は当事者数が全人口の1~2%と非常に少ないため、SNSや公共のメディアによって「ASDは相手をカサンドラにする厄介な人たち」というイメージが一旦大衆に植えつけられると、それを個人レベルで覆すのが非常に困難になる懸念があります。

 上のようなことを、これまで私はあまり深く考えていなかったようです。かつて「X」で「私はASDなので『本当の意味で』他者の気持ちを感じ取ることができない」というようなことを度々書いていたのですが、そのような言葉が他の当事者の方の気持ちを知らず知らずに傷つけていたばかりでなく、私自身をも「そうだ私には人の気持ちなんてわからないんだ。わかってると思ってたのは自分のASD認知特性からくる『錯覚』だ」と暗示をかけてむやみに落ち込ませてしまっていた気がします。これでは誰にとってもポジティブな結果になりません。

 私のように言葉に人一倍引きずられやすいタイプはネガティブなことを思ってても言葉にしない方がいいのかもしれません。ぼんやり意識レベルに上げた後はさっさと関心の対象を意識的に別のものに切り替えて気分転換などしたほうが精神衛生上好ましいと感じます。

 しかしこれはネガティブの否定ではありません。「アンチ・ネガティブ」でしかないポジティビティーはどこか不自然で苦しく感じるものです。大事なことは自分のネガティブと「うまく付き合う」「適度な距離感をとって向き合う」ということだと思っています。


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