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一日にひとつぶ積もる雪

今年の1月12日にアカウントを作り、
気付いたらnoteを始めて2ヶ月経ってました。

そろそろ振り返ってみてもいい頃かな〜。


Twitter村で過ごした10年間


20歳〜30歳の10年間くらい、
ほんとにほんとにほんとーーーに!!
Twitterに依存しまくってました。元住人です。

土日はほとんどTwitterを見たら終わってて、
自分で投稿することを楽しんだり友達のツイートを眺めたり流れてくる爆笑ネタでひたすら笑ったり、めっちゃ楽しい "ついったライフ" を送ってました。


何よりも、


・気持ちがつらいときに言語化する場所があると心強かったし、画面の向こうにいる友達ひとりひとりが温かく見守ってくれたのも嬉しかった。
日記に文字を書き殴ってもスッキリできない気持ちもTwitterの川に流すことで「作品」という意味を持てる気がしたし、140文字という制限があることで「短い文章でも言いたいことが伝わるように」表現を工夫する癖がついた。

→結果、文章を上手に書けるようになった。




・YouTubeにアップするのは勇気が出なくてもTwitterにだったら演奏動画を気軽にアップできた。この作業のおかげで自分の演奏を客観的に見て改善できた&いいねがつくからモチベーションを保ちやすかった。

→結果、楽器演奏がうまくなった。




・Twitterに写真をアップしたら褒められた。自分の新たな特技が見つかって嬉しかったし、撮りたい風景を見つけてそれをいい写真に収めることができたときの喜びも大きかった。褒められるととにかく嬉しいので、

→結果的に写真もうまくなった。



ほめられて伸びる&表現欲が強いタイプの私にとって、Twitterは究極の表現の場であり、究極の自己成長促進ツールだったんですよね。(もちろん友達との交流の場でもあったし、いろんな面白い情報や役に立つ情報を仕入れることのできる場でもありました)

自己肯定感が著しく低かった私も、Twitterという心地よい場所を見つけられたことにより「私って意外と面白い人かも?」なんて、ちょっと自分のことを好きになれたりしたんですよね。


ただ、やはり定期的に訪れる希死念慮や厭世観、「生きていくことが煩わしい、虚しい、割に合わない」感覚……これはもう何歳になっても変わらないし、どんなに自信がついても/いいことがあっても繰り返しやってきます。

そんな気持ちをもったとき、私は
着飾ったり自分の本音を隠したりすることなく、
もう全部ぜんぶ正直にツイートしていました。

もちろん、暴言のような感じではなく
あくまでツイートは「作品」なので、より自分なりの美学を損なわないような言葉を選び、まどろっこしい表現は削除し、読みやすい表現を追求しつつも「正直であること」はいちばん大切にしてました。

そうすると、不思議なことに「いいね」だけでなくブックマークをしてくださる方もちょいちょい現れました。「いつも、私が密かに持っている気持ちを言語化してくれてありがとう」という言葉を戴いたこともありました。


Twitter村との別れ

私のnoteの初記事にも書きましたが、


長らく親しんでいたTwitter村が
イーロン・マスクの台頭によりどんどん知らない姿になっていき……
私にとってそれは耐えがたい苦痛だったので、メインアカウントを消してしまいました。(サブアカウントは「しいたけ占い」と、数々の愛おしいぬいぐるみアカウントを見るために残しています。)


noteの存在は、うっすら知っていました。


Twitterで仲良くしてくれていた子が投稿していたのもありましたが、私の場合、うつ状態でどうしようもなくて自分の気持ちをそのまま検索窓に打ち込んだ時に、noteの記事がたくさんヒットしたのです。

どん底時代の私を救ってくれた言葉は
お医者さんや権威あるライターさんの言葉ではなくて、「自分と同じ、一般人の立場で生きている人たち」が書いた「読んだらわかりすぎて泣いちゃうくらい親しみのある言葉」でした。つらい気持ちがまっすぐそのまま書いてあったり、少し抜け出した場所から「私のあの経験は今もちゃんと生きてるよ、あなたも大丈夫だよ!」って言ってくれたり。



私もnoteを書きたくなった


note、ちゃんとした人とかライターさんじゃないと手を出せないプラットフォームなのかな?みたいなイメージも正直ありました。

でも、私にも書きたいことは沢山ある。



もしかしたら、私の言葉で少しでも
気持ちが楽になる人がいるかもしれない。

逆に、もしかしたら「メンタル弱くてすぐ傷つくやつの気持ちはわからねぇよ」という悩みを抱える人にとっては「あーなるほど、そういう思考回路だったんだ」という小さなヒントになるかもしれない。

そして、そういうふうに私の言葉が誰かをちょっとだけ助けたならば、私が経験してきたグチャグチャなことも「なかったこと」や「無意味なできごと」にならずにちゃんと生きてくれるかもしれない。



そう思うとね、もうnote始めるしかなかったんです。始めずにはいられなかったし、書かずにはいられなかったんですよね。

たとえ私の気持ちが空回りだったとしても

私は、今の自分や誰かのためではなく
過去の自分 (そしてできれば、過去の自分と同じ状況の人) に少しでも「大丈夫だよ」っていうメッセージを伝えて楽な気持ちになってもらうためにnoteを始めたんじゃないかなと思うから、それが達成できれば御の字だと思っています。


もちろん、
心ときめく素敵なものについて語ったり
楽しかった思い出や嬉しいできごとを書いたり
色んなことを書きたいなー!と思ってます。

でも最近「投稿に疲れてない?」と思ったので
少しだけ「noteを始めた時の初々しい気持ち」を思い出してみました。


過去の私がちゃんと生きてくれたから、
今の私が見ている素敵な景色と出会えた。

過去の私がいろんな色の感情や経験を
沢山積み重ねてくれたから、自由な表現ができる。

すぐ溶けてしまう雪のような儚い経験でも、
未来の私がちゃんと素敵な形にするからね。



人生は幸せになるためのものだと思っているので
まだ「試練が人を成長させる」みたいな価値観は少し腑に落ちない部分もあります。でも、過去に頑張ってくれた自分のことは蔑ろにしたくないから……

これからはもっと幸せになって、幸せの「波紋」をたくさん広げられる人になりたいと思います✩.*˚

まだ咲いてないつぼみ、楽しみね!!


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