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甘くない世の中に、お砂糖を投じたい。

今はそうでもなくなったのですが、
子どもの頃の私は「片付けられない女」でした。

片付けそのものが苦手というよりは、
「片付けなければいけない理由がわからない」
「自分にとって片付けは "怒られて仕方なくやるもの" でしかない、だからイメージが悪い」

頭ごなしに「片付けなさい!」と言われると途端にやりたくなくなり、とりあえず怒られないための対策として「部屋の中にあるもの全てを、ベッドの下にガサッと収納して床だけスッキリさせる」という荒業でごまかしたりもしていました。


そんな私が目を輝かせて釘付けになったのが、
映画『メリー・ポピンズ』の中の、メリー・ポピンズや女の子が指パッチンしただけでみるみるうちに部屋が片付くシーン!!!!!

(こういうメルヘンで美しい世界をうっかり覗いてしまうと涙が止まらなくなるんよ……あまりにも現実世界と違いすぎて……うぅっ……そして男の子切ないね、私も指パッチンできません……w)


ここでメリー・ポピンズが歌っている歌
『Spoonful of Sugar (お砂糖ひとさじで) 』

もうほんとね、数あるディズニーの歌の中でいちばん好き!!!世の中の英語の歌の中でいちばん大好きなのがこの歌なんです(´;ω;`)(´;ω;`)!!

私の将来の夢が「魔法使い」になったのは
80%がこのシーンの影響です。
(あとの20%はシンデレラと、児童文学の『いたずらまじょ子』シリーズ。図書館で見かけたら即借りして読み尽くしていた……)


どんなことにも楽しむヒントが隠れてるの、
戯れ!おふざけ!
楽しみを見つけたら、そこで「指をパチン」!

お砂糖がひとさじあれば
苦い薬も飲めるし、仕事だって楽しくなっちゃう!

コマドリは休む暇もなく巣作りをしているけど
口笛を吹きながらやるから、とても楽しいの。

ミツバチだって花の蜜をつまみ食いするから
あちこちへ飛び続けることが苦にならないのよ。

ひとさじのお砂糖のような愉快な方法があれば
どんなことだって楽しめちゃうのよ!

(歌詞の和訳を少しコンパクトにしてみた)



やらなきゃいけないこと、苦しいこと、
片付けなきゃいけないこと……それらをただ淡々とやるだけだと、人間は疲れてしまうし、ストレスがどんどん積み重なってしまいます。

私は「人間」という生物のデフォルトは
楽なことが好きで、集中力もなくて、
怠けられる方向があればそちらに流れていって、
苦しみや痛みを好まない生物
だと思っています。

そう、「ダメ人間」といわれる姿こそが
人間という生物のデフォルトの姿
なんですよ。
だから常に意識の高さを保っていないと、す〜ぐこんなヘナチョコな姿になっちゃうのは当たり前なんです。

でも、「意識の高さを保つ」なんて
そこに大きなモチベーションやメリット、旨みのような「ご褒美要素」を感じていないと無理くないですか?少なくとも、いくら圧をかけられて強要されても、自分から「やりたい」と思えない限りは無理だと思います。

そして、自分から「やりたい」と思えないことは決して悪いことではなく、むしろ「そっちが普通」だと思います。

それでも経済活動をして生き延びなければならない人間には、「お砂糖」が必要なんですよ。私はそう思います。



「類は友を呼ぶ」の言葉どおり、
私の周りには厳しいことが好きな人や意識高い系の人、高圧的で「自分が味わった苦しみは後輩にも味わわせてやりたい」タイプの人、苦境やプレッシャーをやる気の源にするタイプの人はあまりいません。というか、ほぼゼロですww

なので、見えてる世界に偏りがあることは
重々承知しております。それでも。


「世の中、そんな甘くないよ」

→だったら、これから甘くすればよくない?

(世の中を甘くないままにしておいて沢山の人が同じところで苦しみ続けるんだったら、そこの苦しみをなくしてしまえばいいと思うよ?)


この気持ちこそが、私が生まれてきた役割だと思っています。(と言うとかなり大袈裟ですが……ここ数年の私が、すごく思っていることです。)

まぁ現実的な人からすれば、私のこの気持ちにこそ「世の中、そんな甘くないよ」ってツッコミたくなるとは思うんですけどね。ごめんね言いたい気持ちはすんげぇ分かるけど本末転倒になっちゃうから、そのツッコミは御遠慮くださいね〜(にこにこ)


やらなきゃいけないことを、
ただ「耐えさせる」から反発が生まれるんです。
惰性でやるから、思うように伸びないんです。

ここにお砂糖を投入して、

目的が達成されるのであれば、その目的に至るまでの方法や過程については "個を尊重したやり方" を柔軟に考えていこう

「頭ごなしに古いルールを使い回すのではなく、ルールの妥当性や存在意義についてしっかり見直そう。苦しむ人が多いなら、本当にそのルールを撤廃したり変えたりする余地がないのかを考えてみよう」

「多くの人が我慢できることについて、そこで大きな躓きを感じているせいで眠っている人材はいないのか?もしその躓きを取り除けば、眠っている人材が生き、その人自身も自信をもつことができるのではないか?

"慣習だから我慢してやっていること"、本音ではみんなやりたくないのではないか?その苦しみを取り除くことができれば、もっと一人ひとりのモチベーションが上がってポテンシャルも発揮され、結果的に生産性が上がるかもしれない」


こんなふうに考えられるような社会になったら
もっと一人ひとりが苦しむことなく、持っている力を発揮できるんじゃないかな?と私はすごく思っています。

今の社会だと「型にはまれない」もしくは「みんなと同じことができない」状態だと、力を発揮できる場所を見つけることが難しい気がします。その結果、素晴らしいものを持っているのに「私はこの世に必要がない存在だ」と思ってしまったり、「迷惑しかかけられない、生まれてこなければよかった」と思ってしまう人が沢山いるのだと思います。


多くの人が苦しみながら我慢している
「当たり前」のルール、本当に必要ですか?

甘くない世の中、実は苦しくないですか?
本当はもっと甘い世の中を望んでいませんか?

強い立場の人から虐げられがちな人々、
一人ひとりそれぞれが独特な個性や大きなポテンシャル、深い人生経験を持っていることを知っていますか?


私は小さく未熟な人間だけど、
そして世の中の暗黙の了解とかお金のこととか
難しいことはなにもわからないけど、
馴染めない苦労や虐げられた経験、「みんなと同じ」ができない苦しさを経験したことは沢山あるから。

この問いをずっと投げかけたいです。
具体的に何かができるわけでは全くないけど……


ちなみに私が「片付けられない女」を卒業できたのは、夏休みに部屋にGok……☆が出て、それがあまりにも嫌で片付けをしてみたところ

「私にも片付け、できた!!!」

という自信をもつことができたからでした。


そこから「片付けておけば物を失くすことが少なくなる」とか「部屋が綺麗だと鼻炎の症状が軽くなる」とか「部屋が汚いと自分をぞんざいに扱ってしまうけど、部屋を綺麗にしておくと自分を大切に扱えるような気がする」ということに気付けたのでした。

やはり、「怒られないため」よりも
色々と自分でメリットを感じられたほうがやりたくなるし、習慣化もしやすくなると思います。

Gok……☆の出現はちょっと荒療治ではありましたが、自分には無理だと思っていた片付けが「あ、自分にもできるんだ!」と自信をもてたことはよかったな〜と思います。


どうしても無理なことからは "逃げられる選択肢" がちゃんとあって、「できた!」という経験が自信に繋がるようなことにはチャレンジできる……そんな世の中をつくる一端にでもなれれば、そして世の中にお砂糖をたくさん投入するようなお仕事ができれば、今後の人生すごく嬉しいです。

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