Ⅵ.Sweet Trap-2

 その頃エイダはすでに広場からずいぶん離れた場所まで来ていた。別にグリフォンから逃げ出そうとしたのではなく、手をつないで歩くうちにたまたまとある人物の姿が目に留まったのだ。

 それは、つい先ほどウィンターローズの店内でちらっと見かけた人物であり、エイダの記憶にある三人の人物のひとりでもあった。あのときは突然ものすごい勢いで飛び出して来たので、びっくりして固まってしまったが……。

 衝動的にエイダはその人物を追いかけていた。考える前に勝手に身体が動いた。

 ついていくのだ。この三人のうちの誰かに、ついていけばいい。

 ついていったらどうなるのかはわからない。ただ、そうするように刷り込まれていた。けっしてグリフォンから逃げたかったわけではない。

 建物の隙間や狭い路地を抜け、たびたび見失いそうになりながら必死にその人物を追いかけた。そしてようやくその背中がはっきりと見え、『待って』と叫ぼうとした瞬間──、エイダの小さな身体は宙を舞っていた。

「きゃ……」

 走り慣れない足がもつれたのか、わずかな起伏につまずいたのか……、かすれた叫び声を上げて石畳に倒れる。気がつけば陽射しが縞模様を描きだす古い石畳の上にエイダは呆然と座り込んでいた。

「──おい、大丈夫か?」

 困惑したような声におずおずと顔を上げる。必死に追いかけていたまさにその人物が、眉根を寄せて見下ろしていた。ひくりと喉が震え、次の瞬間エイダは火がついたように泣きだしていた。

「お、おい。いきなり何だよ」

 ドードーは盛大に泣きじゃくる幼女を焦ってなだめた。だが、女の子はますます金切り声を上げて泣きわめくばかりだ。転んだのがよほど痛かったのだろうか。

 年齢は四歳か五歳くらい。いい身なりをしている。こんな子どもがひとりで街をうろついているとも思えないが、夕暮れどきの細い路地には人影どころか猫一匹いなかった。

「泣くなって。……ああ、膝が擦りむけてるな。大丈夫、たいしたことない。舐めときゃ治る」

 ドードーはそわそわと周囲を見回したが、少女がどれだけ泣いても誰も駆けつける気配はない。

(親はいないのか……?)

 浮浪児にも見えないが、とドードーは幼女の服についたほこりを払い、よしよしと頭を撫でてやった。

 痛いというより転倒したのにびっくりしたのだろう。やがて幼女は鼻をぐすぐす言わせながらともかくも泣き止んだ。改めて彼女の顔を眺め、ドードーはハッとした。

 見覚えが、ある。

 というか、知ってる。この、顔──。

 幼女は濡れた睫毛を瞬き、怖がる様子もなくじっとドードーを見つめた。

 蒼い瞳だった。明け方の空を思わせる、まだどこかに仄昏さを残した静かな青。

 肩や額にこぼれ落ちる髪は黒褐色の巻き毛で、アンティークドールのように美しく整えられている。色白で子供らしいふっくりとした頬。驚くほど整った顔だちだ。可愛いのはもちろんだが、むしろ『美しい』と言ったほうがしっくりくる。

 似ている。

 彼女に。

 そっくりじゃないか──。

「メドラ……?」

 ほうけたように呟くと、幼女はパッと笑顔になって弾むような声で答えた。

「それはママの名前。わたしはエイダ」

「ママ……!?」

 予想もしなかった言葉に面食らい、ドードーは顔を引き攣らせた。

「そ、そうなの……? え、と……、ママの名前、もう一回言ってくれるかな……?」

「メドラ。パパの名前は、ウィルフォード」

 ガン、と頭を殴られたような衝撃にドードーは固まった。目の前にいきなりちかちかと星が瞬き始める。

(なんだ、それ……!? あのふたりに子どもなんていなかったぞ……!?)

 ドードーの動揺をよそに、エイダと名乗った幼女は急にぴょこんと立ち上がってきょろきょろと周囲を見回した。

「──パパっ……」

 みるみる眉が垂れ、またもや泣きだしそうに唇が震える。

「どうしよう……。パパとはぐれちゃった……」

 ドードーは混乱しきってエイダを眺めた。

(パパって……誰のことだよ!?)

 ウィルフォードというのはレイヴンのかつての名前だ。だが、彼の今の顔はメドラのもの──。昔のウィルフォードの顔をしているのは……。

「────っ!?」

 崩れ落ちそうになり、とっさに後ろ手をつく。愕然とドードーは幼女を眺めた。エイダはしょんぼりとうなだれた。

「エイダ、パパとママに会いに来たの……。だけど、パパもママもエイダが嫌いみたい。ママは怖い顔でどこかに行っちゃうし、パパはエイダをお家に置いてくれないの……」

 かぼそい肩を震わせて嗚咽を洩らす幼女を見ているうちにどうにもいたたまれない気分になり、ドードーは立ち上がってエイダの手を取った。

「大丈夫だよ、うちにおいで」

 エイダは一瞬目を瞠ったが、たちまち笑顔になってこくりと頷いた。ドードーはぎくしゃくと幼女に笑いかけ、幼女の手を引いてゆっくりと歩きだした。エイダは素直についてくる。

 エイダの小さな手は、幼い子どもにしてはやけに冷たかった。

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