見出し画像

電車にて

職場の最寄は高架駅だ。
近くに高い建物が無いため、とても見晴らしが良い。ホーム沿いからカーブを描き、南の方へ向かってまっすぐ流れる川をぼんやり眺めていると、遠くの空に浮かぶ積乱雲に気づいた。
夏のはじまりだ!太陽がまぶしい時間帯に退勤できる喜びを噛みしめる。私は冷たいビールに思いを馳せながら到着した電車に乗りこんだ。

車内、乗客の視線が窓際の一点に集まっている。異様な状況を怪訝に思い目を向けると、そこには一匹のトンボがいた。どこで迷い込んだのだろうか、この駅より前ということは、結構田舎のトンボなのかもしれない。自然豊かな田舎から運悪く電車に飛び込んでしまったトンボを勝手に想像し、哀れに思う。まだドアは開いている。発車まであと数分あった。

トンボはしきりに外に出ようと、閉まっている方のドアに衝突している。そっちちゃう、逆や逆
このままでは羽が傷んでしまう……。お願いだから自分の方へ来ませんようにと、固唾を飲んで見守る車内

虫苦手だがトンボくらいなら羽持って逃がせるかもしれん 羽透明やしな……私がうっすらそんなことを考えはじめたころ、ドアは閉まり、電車は発車した。密室の完成である。
虫が苦手そうな女性がソソクサと場所を移動していった。

車輌奥の方からひょっこりと勇気ある男性が現れた。
彼は腰を落とし、刮目し、トンボに向かって手を伸ばす。活きのよいトンボの動きにつられて男性がユラユラ揺れる。
捕まる危険を察知したトンボは急激に高度を上げた。ちゃう、この人は多分助けようとしてるんやで……私は思う。
すでに停車駅をいくつも過ぎていた。線路はまだ地上だが、この電車はしばらくすると地下に入る。


健闘むなしく、これではとても届かんと判断した男性「ああ、あかんな」と小さく呟き、決まり悪そうに別の車両へ歩いて行ってしまった。ご苦労様です。アンタ格好いいよ。
再び緊張が走った車内をよそに、トンボは天井付近の吊り下げ広告の金具に軟着陸した。フラフラ飛び回らなくなると、次第に人々の関心も薄れたようだった。


また駅に停まる。人が降り、新しい乗客が乗ってきた。彼らは小さな乗客の存在を知らない。しかし次の駅を逃すと、電車はしばらく地下に入る。私は屋外に放せる間にトンボを捕まえて逃がすべきか逡巡した。でもさっきの人かなり手こずってたよな あの人まだ隣の車輌いてはるんやろうか
あれこれウームと考えている間に電車は地下へ入ってしまった。

もはや車内でトンボを気にしている人間は私だけだったが、ここまできたら降車駅に着くまでは見届けようとなおも観察を続けた。というか、ブンブン飛び回る虫に躍らされる乗客たちが見たかったのかもしれない。あさましい私の期待も知らずに、金具に不時着したままのトンボはその後ぴくりとも動かなかった。


降車駅に電車が停まる。開くドアの前まで移動すると、背後に小さなどよめき、電車を降りて窓から車内を見る。トンボの姿は見えぬが、またしても乗客の視線が一点に集まっていた。


地上でドアが開くまで少なくともあと4駅、無事に空へ逃げ出せただろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?