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石上卯乃さんの記事について(性暴力があるという現実をどうとらえるか)

石上卯乃さんの意見をどう受け取ったか

WAN(ウィメンズ・アクション・ネットワーク)に掲載された、石上卯乃さん(匿名)の記事について書きます。この記事を書くために、ほかにも「石上さんを支持する」と声を上げた人たちのツイートもいくつか(具体的には「#石上卯乃は私です」をつけたツイートを)読もうとしました。ですが、それらのツイートの中には、とても攻撃的だな…と感じるものも見受けられて(あえて書きますが、攻撃的なツイートは、もちろん石上さんを批判する側にも見受けられました)、読んでいる内にわたしは消耗し、途中で諦めました。

そもそも、SNS(特に140字のTwitter)で対話や議論なんてできないと思います。わたしのツイートにも、上から被せて自論を述べる人、「ああ、〇〇の人ね」と冷笑する人などがいて、スッと気持ちが冷めました。議論とは、単に自論を主張しあうことではないはずです。相手の言葉を受け取るためには、文脈とか、その人がそのように言葉を発するに至った背景とか、もう少しちゃんと言葉以外の部分を知らないと難しい。でも、SNSでは、それをするのがとても困難です。

一人ひとり、生きてきた経験も、立場も、価値観も違うなかで(さらに、SNSではその人のバックグラウンドのみならず「名前」や「顔」さえ見えないなかで――これは、匿名であることを批判しているわけではありません。事実としてそうであるということです。自分もSNSでは顔を出していませんから)、わたしには、石上さんを支持する人たちの断片的な声を、十分に理解することができるとは思えません。

ただ、乱暴かもしれませんがとても大まかに、以下の事柄が主張の柱なのではないかと受け止めました。当然、全員の考え方が一致することなどあり得ないと思いますが、この3つではおよそ共通しているように思いました。あまりにわたしの認識が方向違いだったら、ご指摘をいただけたら嬉しいです。

1)前提となる事実:今の社会では、数の上で圧倒的に「男性(=出生時に身体の特徴から男に区分され、男として生きているひと=シス男性)」から女性・子どもに対する性暴力が多い。女性・子どもの安全・安心は、常に、この「男性」の側から脅かされてきたし、今も、常に脅かされている。

2)1をふまえた予測:現状、定義の幅が広い「トランス女性」に、これまで女性の専用スペースとして割り当てられてきたトイレなどの使用を「認める」ことで、女性を装った性加害者(つまり女装した男性)が侵入・加害行為をしやすくなる危険性が高まると予測し、不安である。事実として女装した男性による性加害も起きているため、この不安は過剰なものとは考えていない。

3)1・2をふまえた主張:よって、トランス女性の、女性の専用スペースへの受け入れを「認める」のであれば、トランス女性のはっきりとした定義を示し、特に性別適合手術前の女性は、女性のためのスペースを利用しないでほしい。それ以前に、喫緊の問題として、性加害の厳罰化や防止策の強化など、女性・子どもが社会で安心・安全に過ごせるような制度の整備、意識を高めてほしい。

あとは、じぶんたちが「なぜかTERFと呼ばれ」てバッシングされてしまうとか、J・K・ローリングも同様に攻撃されていることなどが紙面を割いて書かれていますが、そのことは今回は触れません。個人的には石上さんをTERFと呼ぶ必要性を感じないし、わたしは本人が望まないのにTERFと名付けたうえで「殺せ、犯せ、殴れ」といった言葉をぶつける行為には反対します。同じくTERFと名指されて批判されているローリングの件は関係がないとは思いませんが、ここでは分けて語る必要があることだと思っています。

上記の事実認識から主張までは、同意できる部分もあるのですが、最初の事実認識が限定的で、そこから結論への飛躍があるように思います。性暴力をどう見るかという点で、わたしと考え方が著しく異なっており、同意できない部分の方が多いです。それから、石上さんご自身がトランスジェンダーの人たちとどの程度出会われたうえでその発言をされているのか、ということがとても気になりました。わたしには、トランスジェンダーの人たちへのイメージ(これは、性暴力の加害者・被害者をどう捉えるかというイメージと、実はつながっていると思います)にはっきりと差別があると考えます。ちゃんと人に伝わる文章が書けるのかどうか、いまは心もとないですが、自分の考えていることの整理のためにも書いておきます。

自分の経験から

わたし自身のことを少しだけ書くと、これまでの人生の中で、性被害の経験が何度かあります。トラウマになってしまったものもあり、それだけが原因とは思っていませんが、若いときに摂食障害でずいぶんと苦しみました。

自身の経験としても、性暴力が、ときに何年にもわたって、それを受けた人の心身を傷つけるということや、生きていく気持ちを削ぐことがあるということには経験上、つねに自覚してきましたし、何人かの方が書かれていた「性暴力への不安や怖さ」という気持ちも、わたしには身体感覚で、リアルに想像できます。いま、多くの人があまり悩まずに利用されている(ように見える)公衆トイレや、公共のお風呂の利用には今も、注意を払っているようには見えないようにして細心の注意を払いますし、他の人と一緒に入るお風呂はかなり長い期間、恐怖心から使えませんでした(今も、可能な限り使いたくありません。一生入らなくても困りません。まったく楽しくないので。でも、人がいない大浴場は好きです)。知らない人の前で服を脱ぐということが、わたしの場合は恐怖につながってしまうのです。

わたしの経験など語るまでもなく、性暴力の経験のある人の声は、いたるところに見つかります。今までも、今も、性暴力は起き続けているという事実を、ここでは強調しておきたい、と思います。

2007年ごろから、トランスジェンダーという属性をもつ人たちとの具体的な、顔が見えるかかわりを持っています。若い世代から悩み相談を受けたことも一度や二度ではありません。彼らも、トランスジェンダーであるという属性以外の部分を山ほどもっている、一人ひとり、外見も内面も、経験も価値観もさまざまな異なりをもった人です。わたしと話の合う人も、合わない人もいます。優しい雰囲気の人も、キツそうな人も、元気な印象の人も、暗い人もいます。社会のジェンダー問題を積極的に語る人も、語らない人もいます。これは、シスジェンダーのひとたちが一人ひとり、外見も内面も、さまざまな異なりをもっているのと全く変わらない、と、わたしは感じます。

トランスジェンダーの人たちは、今までも、今も、この社会で生きてきたし、現在も生きています。だから、なぜ、主張されているようなリスクを焦点化しようとされるのかが、わたしには理解できません(この部分は別の文章でまた書こうと思ってます)。ただ、世の中の理解がまだ十分ではなく、メディアが流す大量の偏ったイメージの植え付けによって偏見(トランスジェンダーはこういう人、という固定的なイメージ)や差別意識を持ってしまう人が多い、ということは実感しています。

そもそも、トランスジェンダーの人は、実際に存在する人数だってとても少ないですよね(これはシスジェンダーの人と比較して、という意味です)。だから「自分の身近にいない」と思う人がいても、そのこと自体が悪いとは思っていません。でも、メディアに出てくる人とかニュースに載るような人ではなく、具体的に目の前で、生身のトランスジェンダーの人に出会っていないとしたら、自分がその人たちについては、本当のところ、ほとんど何も知らないということを自覚している必要があると思います(これは、もちろん生身のトランスジェンダーの人の発信――たくさんの場所で、既に行われています――を否定しているわけではありません。互いに個人として出会うこと・応答しあうことが、書籍やメディアや一時のセミナーなどではほとんど不可能で、「出会う」ということが、わたしはとても大事だと思っているのです。どれだけ時間を一緒に過ごしていても、知ろうとしなければ何も知ることはできない、という側面もまたありますが)。

「トランスジェンダーの人が問題なのではない、便乗して犯罪の機会にしようと目論んでくるだろう性加害者が問題なのだ」という声に対して、わたしは、問題は加害者と加害行為を放置し(軽く扱い)、さらには被害の声を上げにくくしている社会にあると思っています。被害者を守る法律や制度がいっそう整っていくことも重要ですし、「よーし、今から受験勉強に挑戦して、2020年にお茶の水女子大学に入学を目指すぞ!」と差別発言をした百田尚樹のような加害に加担する人を、まず糾弾すべきと思います。「便乗して犯罪の機会にしようと目論むスキやリスク」を減らすのなら、今主張されている事柄(その主張自体がわたしには了解できませんが)だけでなく、いくつもの社会の変化に待ったをかけなくてはならなくなりませんか?女子にもスラックスの着用を認めるようになった高校(わたしはこの変化をとても歓迎しています)に対して「女子が男子と同じ制服を着られるようになって<男装>なんてしたら、性加害を目的にした男子がトイレに自由に出入りできてしまう」と言いますか?「LGBT」なんて言葉もなく、性的マイノリティなど存在しないことになっていた、男女の区別がしっかりされていた時代には、性暴力はもっと少なかったとでも言うのでしょうか。

次からは、石上さんと彼女を支持する方たちの言葉に少しだけ触れて、強く疑問に思ったことを具体的に書いていきます。なにより、性暴力がある現実をどうとらえるかという点で大きな見解の違いがあります。過剰にカテゴリーや属性でリスクをとらえることが今回のような排除に結び付くことに、むしろわたしは不安を覚えます。それから、トランスジェンダーの人の身体の問題を自分が被るかもしれない性暴力と結びつけて考える発想がどこから来るのかを考えたとき、そこに差別的なイメージや、もしかしたら性暴力を受けた人へのスティグマを強化しかねないイメージがあるのではと思いました。長くなりそうなので、今回は性暴力がある現実をどうとらえるかという部分だけについて述べようと思います。長文になるのですがお許しください。

1)性暴力がある現実をどうとらえるか

これまでも、今現在も、一般的に男性(ここでいう男性はシス男性)から女性への性加害が圧倒的に多いのは疑うべくもありません。ですが、その傾向から「すべての男性=加害者もしくはその予備軍」「すべての女性=被害者もしくはその予備軍」と結論づけることはできません(できるのでしょうか?)。それなのに、石上さんたちの主張には、それに近い考え方、もしくは男性から女性への加害しか問題と捉えない考え方があるように感じました。

性加害は、女性から男性に振るわれるものもありますし、同性間でも起こっています。男性の被害者は、声を上げてもまともに取り合ってもらえないことが多いという事実があることを考えると(これは、わたしがnoteでも書いた「『童貞。をプロデュース』での性暴力問題について」のケースなどは、まさにそうだと思います)、数字だけでははかれない、表に出ない被害も実際にはたくさんあるでしょう。「性暴力は一般的に、男性から女性へ」という認識が広くあるがゆえに、それ以外のケースはより声を上げにくく軽視されやすい状況に置かれてしまいがちだということも指摘されています(たとえば、坂上香監督のドキュメンタリー映画『プリズン・サークル』を見ていただくと、そのことが加害者のケースの中に出てきます。あるいは下の本など)。

ついでに言うと、同じ女性の被害者であっても、「性被害にあいやすい女性は〇〇の特性をもった人(例えば年齢が若い人、露出の多い服装の人、いわゆる髪が長いなどの、雰囲気がフェミニンな人、小柄でスマートな人など)」といったステレオタイプのイメージ(「レイプ・カルチャー」のことだけを言っているのではありません)というのがあり、それによって、それ以外の女性は声を上げても信じてもらえない、ということも実際にあります。反対に、ステレオタイプのイメージにマッチする人は「そりゃ狙われても仕方ないよね…」と言われてしまうこともある。あるいは、自分が望んでいないのに表に引っ張り出されやすいこと(被害者を代表させられる、ということです)にもなりやすいと思います。

それでも、圧倒的に男性から女性への加害行為が多い。だから、少数の人たちの例外的に見えるケースよりも、まずは男性から女性への加害行為について何とかしてほしい。そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。でもわたしは、全くそう思わないのです。

いかなる属性・特性にかかわりなく、すべての加害行為が悪い。そして、一人ひとりのかけがえのない命や人生への影響を思えば、一つひとつの被害の重さに軽重などがあるわけではなく、救済されるべきケースに優先される順序もありません。

さらに、その加害行為を生むものは「男だから」という理由ではなく、「他者を力/暴力で支配してよい」と思う、非常にみっともない自己中心的な考え方と、それを可能にする力(肉体的な力はもちろんですが、関係性という構造的な力、さらには力をふるうことを肯定する、社会からの日常的なメッセージなども)だと思っています。性別による性暴力の圧倒的なアンバランスは、暴力/性暴力を行使できる力-腕力だけに限らない、暴力につながる力を、男性の側がより身につけやすい社会だということではないのでしょうか。

もう一つ、内閣府の調査によると、性暴力は、7~8割ほどが顔見知りによる犯行です。一方の犯罪白書(あくまでも警察が認知した件数)では、もう少し割合が下がりますが、それでも「強姦・強制わいせつ検挙件数の被害者と被疑者の関係別構成比の推移」を見ると、平成26年の時点で「親族・面識あり」と答えた人は50.9%と、5割を超えています。(平成27年度犯罪白書から)

もし、「男性=加害者/女性=被害者」を前提として安心・安全な社会を望むのであれば、主張されている危険への対応を求めることよりも、今もまったく安全とは言いがたい-まさに性暴力が発生し続けている-女性と子どものプライベートにかかわりうる場を安全にすべく、「加害の生じる場」の構造的な安全性の点検(たとえば、犯罪を誘発するような死角ができてしまう場所にトイレが設置されていないかなどの安全確認、子どもが指導者等と二人きりにならないなどの閉じた関係性を避ける工夫)とともに、あらゆる職業ないしはその役割を担う人を女性限定にしていく取り組みを始めたほうが、はるかに効果が高いのではないでしょうか。

もちろん、全く現実的ではないと思いながら書いてますが、揶揄するつもりもありません。実際、ラディカル・フェミニズムの考え方である「男性と女性の関係はすべて性関係であり、支配-被支配の関係である」を肯定する人たちから、そのような世界――女性だけのユートピア、を望み、実践されたことも過去にありました。「ラディカル~って?」と思われる方には、吉澤夏子さんの『フェミニズムの困難 どういう社会が平等な社会か』など参考になると思います。

「女性と子どものプライベートに関わりうる」というのは、具体的にはたとえば、教師、塾講師、部活動などの指導者・先輩、上司、経営者といった指導的立場にいる人たち、あるいは保育士、シッター、医者、介護士といったケアワークに関わる人たちのことです。いわゆる「立場/関係性という力」を利用した人たちの性犯罪は、ほぼ毎日と言っていいほどニュースになっており、「女装した、見ず知らずの男性」による加害とはまるで比較にならない多さです。2018年には、公立学校の教職員がわいせつ・セクハラで処分を受けたケースは過去最高の件数となりました。父親や親族からの性暴力も、もっぱらこの「関係性の力」という権力を利用したものです。

これを書きながら思ったのですが、では、「上記の職業や立場についている男性は性暴力の加害者になる可能性があるから怖い。女性に変えてください」と主張したら、どうなるでしょうか。ある属性や立場をもって誰かを疑い、締め出そうとすることって、わたしはずいぶん差別的な考え方だと思います。

さらに、ほとんどの暴力について言えることだと思いますが、性暴力の加害者も、時と場合と相手を選びます。突発的な加害行為に見えても、時と場合と相手は選ばれています。だから、そもそも卑怯だし姑息な行為です。

そして、これはちょっと脇にそれる話かもしれませんが、もともと暴力は特別な、狂暴な人間がふるうものではなく、誰もがその「芽」を持っている、とわたしは半ば確信しています。先の文章に「「他者を力で支配してよい」と思う、非常にみっともない、自己中心的な考え方」と書きましたが、わたしは、それは程度はあれ、全ての人が(もちろんわたしも)持っているものだと思うのです。

個人的には、性暴力をなくすには「ある属性」で他者を疑い、リスクと考える(つまり男=警戒すべき人間と考える)のではなく、性暴力が起きる構造(これは、関係性の構造だけでなく、例えば建物のレイアウトといった物理的な構造も含みます)を考え、可能ならば対策を取ること、一人ひとりが小さなころから性暴力/暴力と、セクシュアリティ――つまり性教育、性的同意などについて学び、暴力を行使しないで他者と関係を作れる方法を考えられるようにすること、被害を受けた人が声を上げたときに被害者の状況を勝手にジャッジし落ち度を責めたりするのではなく、耳を傾け、寄り添おうとする人を増やすことではないかと思っているのです。もちろん、十分ではない法律・制度の整備も必要です。その点は、石上さんらの主張とあまり変わらないはずです。

もうひとつ、「他人を受け入れ、疑ってはいけませんと教え、もし自分の子どもが性暴力にあったらどうするのか」、という不安を誰かが書かれていましたが、わたしは、自分が「怖い」と思う感覚を大事にすることは、とても大切だと思います。自分が非力な存在だと感じられるとき、安全でいたいと思い、周囲に気を付けるのは当たり前ではないでしょうか。セルフディフェンスの基本も、「相手と闘えること」ではなく、「危険を感じられ、逃げられる力をつけること」です(セルフディフェンスについて言えば、わたしは「Wen-Do」(「ウェン・ドー」と読みます)からとても多くのことを学びました。

たとえば「トイレや更衣室などの公共のスペースが、今の社会では必ずしも安全にできていない」こと、「肉体的な力が弱い今のあなたが、思ってもいない暴力に巻き込まれる可能性がある」ことを伝え、それらに備える必要があることを、大人として伝えるべきだと思います。そして、怖いと思ったら自分の感覚を信じて静かに、早急にその場を離れることや、身の危険を感じたら遠慮なく助けを求め、あるいは110番通報をすることなども教えたほうが良いと思います。子どもの頃から、人からされて嫌なことをちゃんと「イヤだ」と言える(イヤだと言ってもいいと思える)ようになることや、人から「イヤだ」と言われたら自分が相手にしている行為を止められる自分になることも、とても大切です。

ただ、この考え方が強くなると(つまり、親・大人である自分の不安が、リスク回避を求めるあまりに、子どもの振る舞いをジャッジする方向へ向かうと)、性暴力の被害にあった人を前にして「だから注意しなさいって言ったでしょう」「どうしてあんな場所へ行ったんだ」「なぜ逃げなかったの?」などの責めの言葉に容易く転がりやすい点には注意すべき、と思います。「決してそんなことはしない、わたしはもし自分の身近な人が被害にあったとき、その人がたとえどんな状況だったとしても、まず100%、被害を受けた痛みに寄り添う自信がある」と、誰もが自信をもって言えるでしょうか。

繰り返しになりますが、すべての加害行為が悪いのです。被害を受ける側が責められる理由などひとつもない。

わたしは、今の性暴力の多さについて誰に責任があるのかと言ったら、それは「男性」ではないと思います。「男なら強くなれ/喧嘩に勝ってこい」と、常に相手を負かすことが称賛につながること。「そんなことで泣くな」と、弱さを否定され続けること。「男なら女の一人くらい、ものにできなくてどうする」と、異性愛規範の中で女性を獲得すべきモノであるかのように教えられること。反対に「女子はこうふるまえばモテる」などと、パートナーシップにおいて主張しないことや従順であることを教え刷りこむこと。ハードなAVや暴力的なポルノだけを見て、親や教師、周りの大人たちから大した性教育も受けずに育ち、強引な性行為が許されると思って大人になること。パートナーや子どもや立場が下の人間など、自分の「家族」「身内」「目下」には自分の希望や要望が優先されるべきで、何をやっても(やらなくても)許されるという価値観をもってしまうこと・・・。いろいろありますが、子どもがひとりでに大人になるのではないように、加害者もひとりでに加害者になるのではありません。

性暴力の責任があるのは、この社会をつくってきた過去の人間たちも含めた、現在の社会を生きている、わたしも含めた「世の中のすべての大人」だと思います。そして、数の上でメジャーな「男性から女性」にふるわれる性暴力だけを問うのではなく、性加害を問う眼差しがないと、女性もまた、たやすく被害を受けた人にセカンドレイプをする存在になりえます。杉田水脈議員の「女性はいくらでもうそをつける」発言などは、その最たるものではないでしょうか。(あのブログでの言い訳も、あまりに酷くてあきれました。リンクを張るのも嫌)​

だから、はっきりと思います。加害者性をもつことに性別はかかわりありません。そして「男性から女性への性暴力」だけ見ていたら、問題の改善は難しいと思っています。加えて、被害を受けることは悲劇です。ですが、それを生涯にわたって長く続く痛みに変えるのは周囲の眼差しであり、被害の救済をしようとしない社会であり、その眼差しを内面化した自分自身であることも、今の自分には分かります。わたしは長く、周囲の女性たちや、わたし自身をも、信頼してきませんでした。

ここまでが、性暴力の現状についてわたしが思うことです。

ちょっと長くなりすぎてしまって、事実認識からつながる予測と主張への反論の方が本来なら大切なのに、ここでいったん切ります。中途半端な意見表明ですし、わたしが見えている世界も、とても限定的なものだと思っています。ほかの人にとっては同意できないことも多いだろうと思います。でも、WANが石上さんの記事を載せてから、わたしには憤りと違和感しかなかったのです。それを、ここまで書いた今は、少しだけ言語化できたような気がしています。

※最初にこれを掲載したとき、「石上さん」と呼びかける文章が2か所ありました(「あまりにわたしの理解が違っていたら教えてください」、と、「何かお考えのことがあればお知らせください」、という表現)。ですが、私はそれを期待しているわけではないと思いなおしたのでその部分を削りました。


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