松浦理英子さんの論考「嘲笑せよ、強姦者は女を侮蔑できない--レイプ再考」のこと

【はじめに】この記事は、一つ前のnote「映画『宮本から君へ』で描かれた性暴力について」からつながっています。そちらも読んでいただけたら嬉しいです。この論考に触れる理由は、後から述べます。

<松浦理英子さんの主張について>

松浦理英子さんの表題の論考を、わたしは2009年に発売された『新編 日本のフェミニズム6 セクシュアリティ』への収録で、初めて知りました。『新編~』には、もともと『朝日ジャーナル』(1992年4月17日号、PP.39-40)への寄稿だった文章に一部加筆されたものが掲載されています。

できれば、松浦さんのパワフルな文章をぜひ読んでいただきたいのですが、そのときのわたしは、ざっくりと要約すると、次のように彼女の文章を理解しました。ちょうど同書P.16に掲載されている、上野千鶴子さんによる解説「『強姦神話』の解体」も読んでいたため、よりレイプ神話(=強姦神話)に引き付けた解釈になった可能性があります。ちなみに「レイプ神話」とは、「被害者にも落ち度があった」「被害を受けた人が冷静でいられるはずはない」などの誤った信念のことで、性暴力の被害を被害者本人の責めに帰すとともに、被害者を辱め、いっそうの沈黙を強いる言説のことです。

【強姦をめぐる、女の側の根強い言説に「レイプは女性に対する最大の侮辱だ」というものがある。だが、その言説は、女性差別=男根主義社会にもとづく「レイプ神話」にとって都合が良いものであり、それを言ったところで強姦者たちの意識は変わらない。強姦者は「性的に女に支配されている情けない男」であり、女性を侮辱すること、女性の屈辱感こそが彼らの願いなのだから、自尊心をもって軽蔑し「レイプくらいで女はへこたれない」と言うべきだ。】

そもそも、この文章が書かれることになった発端は、1992年3月の『朝日ジャーナル』での、松浦さんとマンガ家・安達哲さんとの対談「それでも女はくたばらない」なのだそうです。その対談での、安達さんの「強姦程度で、今、仮にもいい女がへこたれるもんかっていうような思いがあるな」という発言に対し、松浦さんから「フェミニストも、レイプは女性に対する最大の侮辱であるなんて言わないで、もちろん不愉快きわまりないことなんだけど、そんなことは何でもないって、もっと言っていくべきだと思うんですよ」などの安達さんに賛同する趣旨の発言があり、その対談に対する読者からの批判が掲載されたことへの、松浦さんからの応答として書かれたとのことでした。・・・ちょこっと経緯がややこしいのですが、『現代思想2020年3月臨時増刊号』(下にリンクを張ってます)のP.102-113にある郷原佳以さんの論考に、このやり取りの詳細が書かれています。上記、お二人の発言も郷原さんの論考より再引用しました。もしご関心があれば、ご参照ください。個人的には、安達さんの描かれるマンガの「いい女」も、あくまでも男から見たいい女として描かれ、妊娠のリスクを蔑ろにしてるとかファンタジーすぎて引くのですが、まぁそれはいいや。

<違和感その①:「侮辱」について>

2009年に初めてこれを読んだわたしは、ここまでハッキリと性暴力に対するスティグマに反対表明された文章を読んだのが初めてだったこともあり、目からウロコな気持ちがしました。と同時に、当惑し、強烈に反発する気持ちにもなったのです。その時は、その違和感を言語化できなかった。松浦さんの論考から距離を置きたい気持ちの方が圧倒的に強くて、そのまま深く考えることから逃げ、10年以上たってしまいました(長すぎやろ~)。そんなとき、先の『現代思想~』で松浦さんの文章を改めて目にしたり、映画『宮本から君へ』で思いがけず打ちのめされてしまったりして、これは言葉にしておかないといけないのかなぁ、と思った次第です。それで、このnoteを書いています。

当時の気持ちを改めて整理して、大きな違和感がふたつありました。

ひとつは「加害者にとって女性を侮辱すること、女性の屈辱感こそが願いである」という点について。わたしには性暴力の動機が、とくにその暴力が顔見知りなど相手を知っている人や、幼少の子どもなど「抵抗の言葉を持たない人」にふるわれる場合には、被害者(性別は問いません)への侮辱というよりも、確かに対象を見下してはいるのでしょうが侮辱だとは意識されていない「所有欲」や「支配欲」からくる場合も、「侮辱から」と同じ程度にあるのではないかと思っています。最近は、はっきりとそう指摘する本も増えてきました。たとえば、斉藤章佳さんの『男が痴漢になる理由』(イースト・プレス 2017)には、このように書かれています(PP.79-80)。

 強姦、強制わいせつ、盗撮、下着窃盗・・・これはすべての性暴力に通じます。そこに性欲の発動があったとしても、根底には必ず支配欲があります。表面的には性欲に突き動かされているように見えるケースもありますが、性欲を発散したいだけなら先述したように方法はいくらでもあります。それなのに性暴力を介してそれを遂げようとするのは、ベースに相手を自分の思いどおりにしたいという、支配欲があるがゆえです。「男性の支配欲がすべての性犯罪の基盤になっている」――そういい換えてもいいでしょう。

実は、わたしは「支配欲」だけでなく「所有欲」も性暴力の大きな要因だと思っています。同じこと、と思う人もいるかもしれませんが、わたしにとって、このふたつのニュアンスは違います。

今さら確認するまでもないことですが、他者を「所有」するという意識は、基本的にあってはならない考え方のはずです。ですが、「女に手を出す/女をモノにする」「嫁にもらう」という言葉に代表されるような、女性をどこか所有可能なモノとして扱う大人たち(多くは年配の人たち)の意識は、1970年代から80年代、自分が育ってきた環境の中ではまったく珍しくないものでした。こうした、悪気なく暴力以外の文脈で使われる「女の所有」と、性暴力がふるわれるときの所有や支配の感覚は、わたしは地続きだと思っています。常に、力をふるう側の都合や欲求、欲望が絶対視されるからです。とはいえ「女をモノにする」という所有の行為は、現在では完全に性暴力です。2020年の今、世界中で「同意のない性行為は性暴力である」という認識が広がりつつあるのは、ここで改めて言うまでもありません。

ただ、他の国に比べても日本がかなり遅れていると思うのは、日本の創作物を見ていると、未だに「〇〇さんを僕にください」とか「俺の女」という、男が(男同士で)女を所有する言葉が普通に飛び交い、それらへの批判や違和感の表明が、思った以上に少ないように感じるからです。わたしは、そういった、ナチュラルに人を対等に扱っていないセリフが出てくるたびに嫌悪感でのけぞりそうになるのですが、わりとごく普通の恋愛物語にも出てくるところを見ると、その感覚をおかしいと思わない人が、作品を作る人にも見る人にも多いということでしょうか。蛇足かもしれませんが、「俺の女」という人に限って、自分に都合のいい相手の部分だけを所有したがる(だから気まぐれに優しいし、気に入らないと力で、あるいは作為的に相手を支配しようとする)し、「俺がお前を守る(から俺の女になれ)」と声高に言う人に限って性別役割分業観バリバリで、本当に助けてほしいときには役に立たないですよ、経験則ですが。

<違和感その②:抵抗の前の回復、言葉にする力と自由>

もうひとつは、「自尊心をもって加害者を軽蔑すること」について。その行為の意味には共感できたのですが、わたしは「そんなことでわたしは傷つかない」と相手を軽蔑しても、それが決して自分の回復にはつながらないし、さほど性暴力への抵抗にもならないと思っていました。

性暴力を「女性への侮辱」にするのは、社会の価値観です。松浦さんが書かれた「女性差別=男根主義社会」であり、上野千鶴子さんが解説で書かれた「性暴力を特権視する家父長制のしかけた罠」であり、千田有紀さんが『現代思想2020年3月臨時増刊号』でわずかに言及されたような「貞操」-「処女性」の問題でしょう。それらは確かに、被害の痛みを大きくし、被害者の声を上げにくくし、回復を難しくする大きな要因のひとつであり、変えていくべきだと思います(男性の被害者が声をあげづらいのも、この価値観が理由のひとつでしょう)。ですが、その価値観、あるいは規範は、そもそも加害者を嘲笑することで変えていくべきことなのでしょうか(わたしは、加害者を生んだ社会を嘲笑したいです)。日本では性犯罪に対する処罰自体が甘いことは、長く指摘されてきたことです。一例として、国際人権NGOヒューマンライツ・ナウが2017年に発行した「性犯罪に対する処罰比較」をご参照ください。日本の性暴力犯罪者に対する処罰の軽さは、前述の社会の価値観や規範と表裏一体のものだと思います。

2009年当時のわたしの違和感は、「百歩譲って相手を軽蔑するのはいいけど、その前に被害を受けた人がどう傷と向かい合えばいいのか、松浦さんも『新編~』の寄稿者の誰一人として、そのことは具体的に書いていない」と思ったことでした(正確には、その後で読んだ、宮地尚子さんの『環状島=トラウマの地政学』-『新編~』にも収録-は、当時の自分を救ってくれたところもありました)。

その2009年から今まで、自分なりに整理してきた範囲では(2003年にフェミニズムやジェンダーと出会ってから、さまざまな団体のプログラムを受講したり、勉強会に出たり、本を読んだり、人と話したりしてきました。また、2003年から2013年までの自治体の男女共同参画施設での勤務と、現在までのNPO活動をとおして、実に多様な人たちと出会ってきたことも、わたしの力になっています)、結局、被害者の効果的な回復などないと思っています。被害を受けた人の声が、まずは身近な人に受け止められ、セカンドレイプの心配などがない、適切なサポートが公的に受けられ、加害者が厳正に処罰を受けること。それが必要なのは言うまでもないです。伊藤詩織さんの『Black Box』(文藝春秋、2017)などでも、そのことは書かれています。

ただ、「回復」について考えるとき、「被害を受けた人が、痛みについての自分の言葉をもつ」こと(自尊心をもつこととは違います)と、「その言葉と感情が、誰かに奪われることなく表現でき、表現しないことも選択できること」は、つねに尊重されると良いと思います。痛みが長い時間、深くしまわれるほど、ようやく声に出してもなお一層傷ついた経験が(あるいは、声を出す前に、無理解な周囲に諦めた経験が)あるほど、言葉を持つのには時間がかかる。ときに、自分以外の誰かが、勝手に自分の痛みを引き受けようと代弁を試みたり、声をあげることを強要し「被害者」から下ろしてくれないこともある世の中です。

それから、回復はたいていの場合、ゆるやかです。強度を変えて、自分の中で行きつ戻りつする。適切な例ではないかもしれませんが、たとえば「もう受験生という年齢じゃないしそのことなんか普段忘れてるのに、試験前で焦る夢をみる」という人は案外いるのではないでしょうか。あるいは、昔の傷や手術の跡が、ふとした瞬間に傷むということもあるでしょう(わたしも、20年ほど前に実際に何針か縫って難儀した経験があり、その部分は治っているはずなのに、たまに急に痛み出して自分でも驚くことがあります)。そんな風に、心と体についた傷やストレスは、自覚なく、自分が思うより長く、記憶の引き出しに残るのだと思います。だから『宮本から君へ』を見て、本当は作り手を嘲笑できたら一番楽なのだけど、あれだけ打ちのめされるのも仕方ないな、と思っています。

短くと言ってたのに、長くなってしまったのでやめます!続きは、またいつか書けるかな。

最後に。『新編 日本のフェミニズム』には、フェミニズムと向かい合ってきた、たくさんの先人たちの言葉が詰まっています。今日の文脈では、「6 セクシュアリティ」の巻もおすすめですが、わたしが当時全12巻を読んで一番ビックリしたのは、「2 フェミニズム理論」に収録されている、江原由美子さんの「からかいの政治学」。全文は『女性解放という思想』の中に入っています。古い本なので図書館などで探してみてください。「なぜ、世の中には男から女への性的なからかいが多いのか」についてのヒントがもらえると思います。(下のAmazonの書影は、オンデマンドになってしまってるのでだいぶ違う。ごめんなさい)

春を感じる季節ですね。お散歩したり、お昼寝したり、何にも自分に課さない時間を大切にしたいなと思います。

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