映画『宮本から君へ』で描かれた性暴力について
少し前のこと、映画『宮本から君へ』を見に行きました(あらすじは後述します)。新井英樹さんによる同名のマンガを原作とする作品です。でも、映画の途中に出てくる性暴力のシーンが耐えがたくて、わたしは最後まで見られずに退席しました。浅い呼吸のまま、劇場を出たところで涙があふれてきて、地下鉄の駅にも向かえず、裏道をぐるぐると歩きながら泣きました。
身体がえぐられるように痛く、こんな痛みを感じる自分も、この映画を肯定する世界も、すべて消えてしまえばいいと本気で呪いました。
4~5日たってようやく、きちんとした怒り(きちんと、っておかしい表現ですよね。わたしが生きるために必要な、感じるべき感情だという意味です)が湧いてきて、次の週末に原作のマンガを一気読みしました。――どうして、まるで「当たり屋」みたいに、あえて性暴力が描かれた作品を見る方向に怒りが向くの?と思われるかもしれないのですが、原作と映画のそれぞれにある、性暴力との距離感、というか作り手の立ち位置を見極めずにはいられない、と思ったのです。
映画は二度と見ないし、見たことを忘れたい(こんなふうに記事にしたら忘れられんよ、って言われそうですけど)。その一方で、この作品を素晴らしいと称え、全体に流れる熱量(俳優の熱演は、わたしも評価したいです)を高く評価する人たちがいて、そこで描かれている性暴力などまったく何でもない、日常の当たり前の出来事のように、劇場でも平然と上映されている。こんなふうに痛みを感じるわたしが超少数者なのであればなおのこと、自分の痛みがどこから来るのかを見ておかないとわたしはまた声を失う、誰もそれをわたしの代わりに見て、わたしの代わりに言葉にしてはくれないのだから、と思ったのが大きな理由でした。加えて、生身の人間が演じる映画と違い、マンガのキャラクターなら、もう少し作り物として自分と距離を置き、描かれた性暴力を受け止められそうだ(つらすぎたら自分が好きなときに中断できる)と思ったのも、原作を読むことにした理由です。
どんな作品か、よく知りもせずに映画を見てしまった自分も悪いのです。ほんと、後悔しています。とはいえ、予告や作品紹介には性暴力の存在は伏せられていた(今思うと、小狡いやり方。あるいは宣伝の人も、性暴力は大したことじゃない、どうせ日常茶飯事だから、とでも思ってるのかな)。そして見たからこそ、これが「R15指定」というレイティングには全く賛同できないし、映画界の性暴力表現への甘さにも異を唱えたい。現実に、性暴力は日常的に起きていて、表に表れにくく、しかも被害を受けた側がようやく声を上げてもまともに取り合ってもらえず裁かれないケースが数多く存在する日本の社会。現実の被害を軽視するかのような、映画や物語世界での性暴力の扱いのカジュアルさに、これまで異を唱えられなかった自分への反省としてもここで書いておきます。
<映画『宮本から君へ』のあらすじ>
映画のストーリーは、ざっとこんな感じです。
主人公は、文具メーカー「マルキタ」で営業職として働く、宮本浩(池松壮亮)。彼は、人一倍正義感が強く、だけど超不器用で、営業先でもやらかしてばかりの人間です。その彼が中野靖子(蒼井優)に恋をし、彼女の自宅に招かれたところへ靖子の元彼・裕二(井浦新)が乱入してきたことで、ひと騒動がおきます。裕二と靖子の前で「靖子は俺が守る」と言い放った宮本と彼女は、その出来事のあと結ばれました。
ある日、営業先で気に入られた真淵部長(ピエール瀧)と大野部長(佐藤二朗)に誘われ、靖子を連れて飲み会に参加した宮本は、気合いを入れて日本酒の一升瓶を飲み干し、泥酔してしまいます。見かねた大野が、真淵の息子・拓馬(一ノ瀬ワタル)の車で二人を送らせようと拓馬を呼びつけ、泥酔した宮本と靖子を連れていかせるのですが、宮本がベッドで熟睡する隣で、拓馬は靖子をレイプする。結果的に、そのお膳立てを大野部長がしています(わたしはその後、靖子が包丁を取り出すシーンまでしか見ていません)。
<原作のジェンダー・バイアスと性暴力の表現について>
マンガは、もともと『モーニング』紙上に1990年から1994年まで連載された作品。物語の幅は映画が描いた時間よりもずっと長いので、宮本の仕事上の無謀なチャレンジや、失敗を重ねて成長する姿、靖子以外の女性との恋なども描きながら進みます。ただ、後半は仕事よりもむしろ靖子のレイプ被害と妊娠をきっかけに、宮本が「彼女を守る」ということとどう向き合い、どのように自分の葛藤にけりをつけるかという方向に疾走していく感じでした。宮本は、圧倒的な体力差のある、ラグビー部で超ガタイのいい加害者と決闘するという、自己満足な(靖子の気持ちを置き去りにして、という意味です)解決策に突き進みます。
マンガを読んだことで、自分の痛みについて納得したことがありました。原作は、映画以上にジェンダー・バイアスのかかった、じつに都合の良い男性性/女性性の表象に執着した世界観の上に進む物語でした。あくまでも女性を、主人公と、彼を取り巻く男社会にとって都合の良い存在にしか描いていない。人間のもつ聖俗、強さや弱さが渾然となって表現され、そのこと自体はすごくいいなと思うのですが、いちいち「女」「男」と紐付けてきて鬱陶しかった。そもそも物語の中に女性差別的な言説が溢れていて、そこで描かれるレイプが被害を受ける女性に寄り添っているわけないじゃん、とも思いました。
この記事を書いているときに、作者のインタビュー記事を見つけました。BuzzFeed Newsの「新井英樹が語る「宮本から君へ」」(2018年5月16日11時1分、インタビュアー/播磨谷拓巳さん )です。そこには、物語に靖子へのレイプを入れたことについて、ご本人の言葉が、このように書かれていました。
編集長の栗原さんが「最近、読者の共感を得ているようだね。共感なんて甘えたこと狙うな」と。編集部に呼び出されて「これは禁じ手なのだがレイプさせないか」と言われたんです。
悪魔の囁きでした。キャラクターを大事にすると言っておきながらやっていいんだったっら、やってみたい。誰も立ち入っていないところに行ってみたいという大義名分に勝てませんでした。
大義名分だとか。実に楽しそうですよね。また、インタビュー最後の方ではこうも言ってみえます。
映画でも漫画でも世の中自体も、本気じゃなく、インスタントでお気楽な被害者主体で進んでいるのが嫌でしょうがない。
女性へのレイプを、男の物語の「だし」につかうやり口のお手軽さには目をつむって「本気」だとか笑わせる。「考えてることは14、15歳のまま」が許される甘えた場所(男社会といいます)から出ようとしないキャラクターたちに暴力や性欲、支配欲の暴走を許し、大人としての責任からは逃げ、被害者を何度も踏みつけて被害者面するなよと言うのだろうか。それこそ、この上なくインスタントでお気楽な加害者主体では?(上記インタビュー記事では、なんと、映画を会社の新卒社員向け試写で見せたのだそうです。地獄かよ)
そもそも女性を同等に扱うつもりなどない、パワーゲームを肯定する男社会の中で、「女」を弱者にして(何度も言いますが、被害者を被害者にするのは誰なんですかって話ですよ)、相対的に主張したい「男」の強さを正当化するわけだから楽ですよね。
ディスりまくったけど、未読の方は気になれば読んでみてください。ジェンダー・バイアスを知る、いい教科書になると思います。男性誌に多いこういうバイアスにまみれた物語を刷り込まれた人は、自然と「男は/女は」という二分法かつ異性愛規範バリバリで人間を見ることになるし、自分とは異なる性別の人を、一括りに別の世界の生き物のように扱うのではないでしょうか。あるいは自分が思う男らしさ/女らしさの枠にはまらない人たちを軽視していく。その世界の見方は、今のこの社会で起きている様々なハラスメントや性暴力の再生産を後押ししていくだけです。だって、暴力バンザイなんだから。男性に都合良くできている社会構造を問わず、その中で他者を傷つけ続ける幼稚さに気づかないのでしょうか。
<映画の暴力性について>
映画は、この原作をもとに作られました。だから、最初から流れる女性嫌悪的なセリフ、ホモソーシャルな関係性は原作を踏襲したものだろうと思います。わたしが見た範囲ですが、原作に忠実に作られています。
加えて、激しい暴力を描くのは、真利子哲也監督が得意とするところです(わたしは、だからもっと警戒すべきだったのでしょうね…)。性暴力を描くのは楽しかったですか。人の痛みを、自分のカタルシスに使うのは熱血風味を出せるからいいですよね。どのくらいの痛みとも引き換えにならないほどの痛みをくれたこの作品を、わたしはこうして言葉にできたから、サッサと忘れることにします。でも、性暴力の被害当事者にはこれ以上ひとりも見て欲しくはないから、わたしはこの痛みを書き残します。
最後に、わたしが心身ともに消耗し、その後猛然とマンガを読んだ後のことです。2019年10月4日付の、佐野亨さんのツイートを見つけ、その言葉にどのくらい元気をもらえたか言葉にするのが難しいです。感謝と共に引用させてください。「今日発売のキネマ旬報10月下旬号。星取レビューの担当作品は『惡の華』『宮本から君へ』『HiGH&LOW THE WORST』『蜜蜂と遠雷』の4本です。」の後に、次のツイートが続きます。
映画を見る前に、この言葉と出会っていたらなと思わずにはいられない。見ない権利を、適切に行使できたはずだから。
次回は、もうちょこっと楽しい話題にします。と思ってるけど、性暴力に関しては、個人的に松浦理英子さんの論考「嘲笑せよ、強姦者は女を侮蔑できない--レイプ再考」(『新編 日本のフェミニズム6 セクシュアリティ』に収録。前回noteで触れた『現代思想3月臨時増刊号』にも、郷原佳以さんの論考「非性器的センシュアリティを呼び戻すために 松浦理英子論序説」があります)のことに触れないわけにはいかなくて。だから、次はちょこっとそのことを書いて、この話題はおわります。
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<以下は2022年2月に書き足しました>
この記事は、およそ2年前の2020年3月に書いたものです。自分でも思いがけず、沢山の方の目に触れることになりました。アクセスが他の記事よりはるかに多く、今も継続的に読まれていることに驚いています。時折「いいね」や、たまにサポートまでいただき、そのたびに心から感謝しています。ほんとうに、ありがとうございます。
読み返すと、映画を見たあと極度の睡眠不足が続き、悲しみや怒りでごちゃごちゃになった自分を整理したい、それだけが原動力で書いていたなと思います。感情が吹き出し、攻撃的で見苦しいところもあります。それについては今、恥ずかしく感じます。でも、同様の映画経験はこれが初めてではないのです。だから残しておきます。
暴力や悪人を描くなとは、全く思いません。世界中にあることだから。わたしが取り上げた本作を、好きな人は多いでしょう。そのことを否定する気持ちもないことは、改めて書いておきます。
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