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石長比売と木花之佐久夜毘売の、ふたつに分かたれて失った“永遠”のこと


 春のはじめのころ、長年愛用してきたフェアリータロットカードをひいていたとき、ふと女教皇と女帝が偶然ならんだ配置に目を落とした瞬間、心に「イワナガヒメとコノハナノサクヤヒメだ」という言葉が浮かんできたことを、近ごろ想いだすことがあります。


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 石長比売イワナガヒメ木花之佐久夜毘売コノハナノサクヤヒメ

 姉妹であるこの女神たちは父神の意向で姉妹そろってひとりの男へと嫁したけれども、男は妹の木花之佐久夜毘売だけを妻とし、姉の石長比売は父のもとへと返した。

 妹は美しく、姉は醜かったから。

 その仕打ちに姉妹の父神は怒り、男にいった。「石長比売は岩。木花之佐久夜毘売は花。あなたが岩のごとく永遠であるように、あなたが花のごとく繫栄するように、これはそのための婚姻であったから岩と花はともにあなたのもとにいる必要があったのに、ふたつは分かたれてしまった。だからあなたは“永遠”を失うだろう」

 そして神であった男は“永遠”を失い、人間の生とおなじ時間の長さにまでその寿命を縮めた。


 このお話は日本の神話を知ったはじめのころから印象的にわたしのなかにこだまするもののひとつで、とりわけ2018年くらいから折に触れて思い返すことが増えました。醜いからと送り返された姉と、美しいから妻にと乞われた妹。

 石長比売を哀れと思うでしょうか。おなじ姉妹なのにひとりだけ“選ばれた”妹と見るとき、木花之佐久夜毘売に感じる気持ちはひとそれぞれかもしれません。


 わたしはといえば、“ひとつであったものがふたつに分かたれたから分離が生まれた”というこの神話の姉妹たちは、本来ひとりの女神だったのではないかと思うことがあります。ひとりの女神のなかの局面を対極な存在としてあらわしているのではないかと。その対極は、光と闇といいかえることもできるもの。

 姉妹が嫁した男神は子を身ごもった木花之佐久夜毘売に疑念をもち、父親は自分ではないのではないかというふうに訝る後日談があり、そのとき女神は自ら産屋に火を放って、「あなたの子であるならば、なにがあっても無事に生むことができるはずです」と燃える炎のなかで出産を果たしたということです。

 姉の石長比売がどのようなかたであったのかを神話は語りませんが、わたしは木花之佐久夜毘売のこの話のなかに強い信念——“岩”のかけらとでもいうべきものを見るように感じたりもします。


 そして冒頭のフェアリータロットカードの女教皇と女帝にふたりの女神を感じたとき、やはりイワナガヒメとコノハナノサクヤヒメはひとりの女性をふたつに分離した姿なのかもしれないと、あらためて思ったのでした。

 「醜い」とされた闇と、「美しい」とされた光。

 この闇と光の姉妹をフェアリータロットの2枚のカードから感じたのは、このカードに託された不思議な意図ともかかわりがあるのかもしれない。

 この女教皇と女帝が佇むのは、実はおなじ場所なのです。グラストンベリー修道院の建物のなか。けれども女教皇がいるのはその暗い廃墟で、女帝がいるのは輝きに満ちた中庭です。それぞれ女教皇は飛沫をあげる水が、女帝はこれから育まれてゆくのであろう草が足もとに配置されています。女教皇の手には分厚い書物が、女帝のそばには鍵のかかった宝箱が。そしてよく見るとふたりとも美しい羽根に雪の結晶のようなものを纏っているのです。


 女教皇がひらいて見せる本のなかには、一説によると過去世からつづく彼女の魂の記録が記されているのだそうです。そしてそれは廃墟という闇のなかで自身の内部を直視しつづけた者だけが読むことのできる書物なのかもしれません。

 自らの五感を鋭く研ぎ澄まし、余分なものを削ぎ落す。目を閉じると自分自身の内部の反応をより強く感じるように、それは逆に光のない場所だからできることであるかもしれず、彼女の足もとの水は彼女の潜在意識をあらわしているようにわたしには感じられます。自身のなかに奥深く眠るものを開花させるために彼女は闇のなかにいて、ひらかれた書物はそれが目覚めたことを暗示している。“ひらかれる”ためには岩のような意志を必要としたもの。そして彼女の書物がいにしえの記録であるならば、岩は記憶とつながっているものでもあります。そして水もまた、記憶とつながるもの。


 一方、女帝は繁栄のなかにいます。足もとに生い繁る草も、彼女が微笑みかける赤子も“育まれたもの”の象徴。しかし足もとの宝箱が気になります。そこに鍵をかけるための錠があることも。その鍵が閉じているのか開いているのかは、女教皇の書物のようには判然としません。けれどもこの女帝を木花之佐久夜毘売だと感じたとき、宝箱のなかには彼女の本心が眠っているのではないかとわたしはとっさに思ったものです。

 そしてその蓋をされた箱のなかに秘められた感情は、女教皇の水路へと通じて、ひらいた書物のなかにその心が記されているのではないかというように。


 女教皇と女帝がそれぞれの羽根に纏っているのが雪の結晶なのだと気づいたとき、なぜ雪なのだろうとわたしは首を傾げました。でも雪ふる冬は眠りの季節だから、それが閉ざされた箱に眠るものの存在を、それが廃墟へと繋がっていることを意味しているのかもしれないと思ったりします。考えすぎだといわれればそれまでだけど、すべての符号があうようによく呼応しているから。

 女教皇も女帝も冠をかぶっていることが、それぞれにそれぞれの場所で極めた者であることをつたえてくる。なにを極めたのかといえば、闇と光を極めたのでしょう。彼女たちは磨かれて、女神官へ、女神へと遂げてゆく。

 そして極められた闇と光が溶けあうとき、隠された場所でつながっていた水路の鍵がひらき、封印を解かれた第3の女が出現するのかもしれない。そんなことを考えたりします。


 石長比売と木花之佐久夜毘売のことも。

 ふたりの女神が嫁した男は、姉を醜いと送り返し、妹の不貞を疑った。どちらも「拒絶されている」という点ではおなじことではないか、とわたしには思われます。そしてそのように誇りを傷つけられたとき、蓋をして鍵がかかる気持ちがあるのではないか、と。


 たとえば日本の昔話でいえば、夕鶴も雪女もその正体を隠して男の妻となり、それが明かされたときに永遠に去っていきます。なぜ去ったのかといえばそれを知られたことを、たぶん彼女たちは“恥”だと思ったからです。恥というのは自分のなかにある“醜さ”だと自身では感じているもののことで、それを「知られた」ことに耐えられずに去ってゆく。男に自分のなかにある醜さを知られたくないからこそ、そのはじまりから“正体”を秘めていたのだから。自分の醜さをけっして男たちは認めないだろうと、知られた瞬間に還ってゆく。夕鶴は空のなかに、雪女は雪のなかに。なぜなら彼女たちが自らの“醜さ”を認めていないのだから、男がそれをかりに受けいれたとしても「知られてしまった“恥”」におそらく彼女たちは耐えられないのです。


 「醜い」と故郷へ送り返された石長比売は、ひとりの女のなかに存在した闇、拒絶されたことにより分離した意識なのではないかと、わたしは思ったりするのです。そして彼女の心は頑丈な箱のなかにおさめられ固く鍵をかけられる。


 石長比売を失ったことにより、男は永遠をも失いました。その“永遠”は命のことなのか、それとも育まれたかもしれない愛のことなのか、フェアリータロットカードに日本のふたりの女神を感じたときそんなふうに想いを馳せた春のこと、そのときわたしには女帝が本心を秘めて微笑む木花之佐久夜毘売のように見えたこと、いまさらながら綴っておきます。



 

 

 

 

 

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