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『小さな家』

 ル・コルビュジエの「小さな家」を引っ張り出してきた。
 つい先日のこと、CICADAという地中海料理のレストランで、友人5名で夕食を共にしたときのこと。

 スパークリングワイン、またはクラフトビールで気軽に乾杯をしてから、巣立った息子たちがどうしているか、という話になった。
 名残惜しく追いかけてしまう母と、そういうものだと受け止める母。
 それぞれの息子を見る目が、面白かった。

 フムスや、スパイスの効いた苦味のあるグリーンのソース。
 ふわりとした豆のごとく子を包み込みながら、苦味も味わいながら、今の私たちがある。
 ほどよく照明を落とした店内は、なんとなく子宮の中を思わせた。
 グラスの泡が、キャンドルの光で輝いている。

 私は、それぐらいの人数の中で、いや、いつもかも知れないが、聞き役に回ることが多い。
 心地よい話に耳を傾けながら、想像の世界に入るのが好きだ。

 
 その日は、ネイティブインディアンのビジョンクエストを思った。
 若者がある年齢に達すると、後見人として何人かの長老がついて、部族における自分の役割や、存在理由を知るために通過儀礼(元服の修行)に入るのだという。
 大いなる自然と一つになりながら、自らの使命を掴み、一族に役立つビジョンを見つけるまで探究(クエスト)を続ける儀式。

 私のような人間は、今も、おそらくはこれからも、使命を模索しながら生きていくのだろう。
 たまに海や山で命の洗濯と称して、空を見ながら、これからどうしていこうか、と考える。
 実は、成人した子どものことどころではない。
 自分が完成していないと、常日頃感じている。
 今している仕事も、仮の姿のような気がしている。
 本当の私は、どこにいて何をしている私なのだろうか・・・。


 「なかなか、息子が会ってくれなくなったわ。」

 と語ったのは、企業法務を担当する国際弁護士であり、世界のどこにでも住めるような資質をもつ友人だった。
 「今となっては、富士山が見える場所に、自分のためだけの狭小住宅を建てるのが夢。弁護士ではなくて、インテリアデザイナーになるのも夢だったの。建築士ではなく・・・。生成AIである程度のことは出来るようになっても、気に入った物に囲まれて、好きなように暮らすのが夢。いつ離婚してもいいと思っているしね!」
などと言う。

 その時、思い浮かんだのが、この本だった。
 その中の、庭の写真を思い出した。
 レマン湖のほとり、でなくてもいいけれど・・・ゆっくりと午後を楽しみたい。

 

 カップ・マルタンの休暇小屋や、コルビュジエの弟子・吉阪隆正のヴィラ・クゥクゥ・・・。
 大きくなくて、必要最小限に必要なものがあり、美しい家。

 友人は、私より年齢は若いが、もうある程度、自分のやるべきことをやり切った感があるのかも知れない。
 そして、自分が決まりきらない(ブレイキンのキレの悪さのようなもの)私も、彼女も第2の人生をどうしていくのかを楽しく前向きに考えている。

 極力少なく、自分のお気に入りだけを周りに置いて、日々愛でて暮らす生活に憧れて、想像の世界に浸ってしまった。
 
 それぞれの子どもの話はほとんど聞いていなかった。

 
 

書くこと、描くことを続けていきたいと思います。