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子育ての「型」と「自由」

子供は自由に、のびのびと・・・、というのは理想だけれど、みんなが子供の主体性だけを尊重したならば、どうなるんだろう?
「自由」と「放置」の境目はどこだろう?
そして、「躾」と「締め付け」の違いは何だろう。

教育の場で働いていると、叱らない親御さんは多くいる。
「怒る」と「叱る」は違う。
叱ってもらえないのは、不幸なことでもある。
叱ることは、愛情でもあるからだ。

子供が小さかった頃、ある程度の誘導は子育てに必要ではないか、と考えていた。
まず、「型」を教えて、後から意味がわかるということも、必要ではないか。
私が親から受けた教育を分析すると、あれは「型」だったのではないだろうか。

能や歌舞伎、茶道に書道、武道などは、まず型をものにしてから表現をする。
「型」と意識しなくても、自然に「型」になるまでには時間がかかる。
「型」が習慣になるまでの時間が、重要な子育て期間なのではないか?

「型」ができて初めて表現になり、生命が吹き込まれる。
書道なら楷書から草書、絵画ならデッサンから始まる。ピアノも然り。

躾とは、身と美からなっている。
どのような振る舞いが人間として美しいことなのか、親の価値観が問われるところだ。
人としてこうあるべき、と思うことは、子供の言い分を待たずに言ってしまったこともある。「こうあったほうがいい」ではなく、「こうあるべき」なこと。

「もし、今から話すことを違うと思ったり、意味がわからなければ言ってください。なぜ、ママがそう思うのかを今から話します。」
何事もいい加減にせずに、親子というより人間同士で会話したいと考えていた。
幼稚園の子供でも、親が真剣に話せば真剣に受け止める。
そんな時、私は必ず敬語で話した。
子供も敬語で返す。

看過できないと思ったら、子供の失敗を待たずに「待った」をかけて先回りもした。
「それをされたら、あなたならどう感じますか?」
「今の言葉は良い言葉ですか?言われたらどう思いますか?言い直しましょう。」
多少、厳しいかもしれないけれど、小学校入学までに身につけさせた。
大切なのは、人の気持ちになってみる想像力だ。

私が子供の頃、親に良く言われたものだった。
「一度口から出た言葉は、二度と口には戻せません。頭で良く考えてから口にするように。」
文章を生業としていた父は、
「言葉で人は殺せる。言葉で人を追い詰めてしまうことがある。」
そう言っていた。これはいつでも私の頭の中にある。

息子の友達にも、言葉遣いも行動も乱暴な子はいた。
何か言われるとカッとなって暴力を振るう子も。
「最初に手を出したかもしれないけれど・・・。」と、彼の親が庇うのを見ると、暴力はエスカレートしていくであろう事実を息子に伝えざるを得なかった。
まず、最初の暴力を抑えないと、残念ながらどんどんエスカレートしてしまう。
手を出したら負けだ。

「マシュマロテスト」というものがあるが、衝動性を抑えられる子供と、そうでない子供は、つく職業も年収さえ違ってしまうのだ。
小学校受験で取り入れているところもあるくらいだ。
それどころか、取り返しのつかない怪我を相手に負わせてしまったとしたら、自分の人生も晴れやかなものではなくなるだろう。

嫌な話ではあるけれど、友達の行動を聞いて、親の経験値で、付き合うべきか離れるべきかを子供に話さなければならないこともある。
それは、どなたかの本でも読んだことがあったが、口出すべきでないという方と意見は分かれるところかもしれない。

してはならないことには理由があることを教えれば、子供はそれをしない。
それが習慣になれば、自然な所作となれば、何も苦にならない。
それが「型」だと思う。
それは、0歳から始まっている。
そして、身につけてしまえば苦労しないで済むことがたくさんある。

感性を育てる「自由」な時間は充分に取り、親子で没頭して楽しむ。
一方、社会性のいる場面では、自分の行動がどうなっていきそうかなのか?という未来への想像力を持つ。
また、未来から逆算するような見方も教えた。
物事を多面的に考えるということも。
大人も含め、人に教えられなければわからないことがある。

「自由には責任が伴うということを覚えておいて。」などというと「締め付け」になるだろうか?
「自由」ばかりでは、突き詰めて考える習慣がつかない可能性がある。
考えて行動できる子になるためには、緩急をしっかり味わってほしかった。

「型」が出来上がっての「自由」。

小学生以上になると、子育ては楽になった。
子供の中に、自分なりの基準ができたからだ。
自分なりの基準に従って、越えてはいけない一線を自分で守れる。
それが出来ると、とても「自由」に行動できるのだと思う。
「型」ができて、初めて見守りだけで済む。
親として、子供を信用できる。
あの子なら、大丈夫!と。

将来、「親はこう言っていたが自分はこう感じていた。」と自分の「型」を子供に伝授してくれたら嬉しい。
私の「型」も、親に習ったものだ。自分が育てられた環境が土台だ。

もし私のように早くに親を亡くしてしまったとしても、本が道筋をつけてくれることがある。その中にモデルを探し、自分はどうしたいのか?自分の中に中心点を見出すことはできるのだと思う。

井深大さんの「幼稚園では遅すぎる」という著書はよく読んだ本のうちの一冊だ。上の子を躾れば下の子はそれに倣う、というような内容があったと記憶している。
それは、人として生きていく上での土台。「型」ではないだろうか。

働きながら、四六時中こんなことを考えているのだから、親は楽ではない。
しかし、子育ては何よりの人生勉強だ。

親も間違えるのは当たり前だと思っているので、
私は、間違えたら誠心誠意謝ることにしている。
こんなママだけれど一所懸命伝えようとしているよ、と言葉に出して言ってみる。
「いいよ。」「わかってるよ。」と子供は優しいのである。



書くこと、描くことを続けていきたいと思います。