時々、声を手で触れます
ぶどうを皮ごと食べたときの、しゃきしゃきした歯ごたえを思い浮かべられるだろうか?
お味噌汁に入った煮干しの、ざらざらした舌触りを思い出してみてほしい。
わたしにとってはそれがひなちゃんとさえちゃん、小学校のときクラスにいた女の子たちの、「声」だった。
はあ、何言ってるんだこいつ?と思ったそこのあなた。
ご心配なく。わたしの周りの人々もその反応だった。
家族、友達、先生。面白がってはくれても、一人として「わかるー」とは言ってくれない。
まさか本人に向かって「ひなちゃんの声ってぶどうの皮だよね」なんていう勇気もないから、このことはそれきり誰にも言わず、自分でも忘れかけていた。
あのときの感覚は、こうだ。
ぶどうの皮のひなちゃんは、少しハスキーで硬質な声。
一方お味噌汁の煮干しのさえちゃんは、柔らかく少し鼻にかかった、どこかアニメの声優を思わせる声。
彼女たちの声を聞いた瞬間、その食べ物の歯ごたえや舌触りが口の中にいっきによみがえってきたのだ。耳と口が同時に反応して、顔の下半分がその感覚でいっぱいになった。
ただ、味は少しも感じなかった。あくまで感触だけである。
聴覚と、触覚。
そう、私はその2つがリンクする。
それは今も変わらない。特に人の声からは、何かしらの肌ざわりを連想しやすい。
最近だと、M-1グランプリを見ていて、大阪の漫才師見取り図の盛山さんの声を聞いた瞬間、「あ、発泡スチロール」と思った。
柔らかくて空気をたっぷり含み、どんな衝撃も吸収してしまう、そんな声だった。
逆に、感触→音の順番で連鎖することもある。このパターンに気づいたのは、去年の春のことだ。
外出自粛が続くある日、穏やかな天気に誘われて、私は久しぶりに庭に出た。
足元に、ピンクの花が咲き乱れていた。幾重もの花びらが小さな球になり、まるで金平糖のようだ。
雑草と呼ぶにはもったいないかわいらしさに、思わず1輪手に取ったそのとき、
「チュン」
耳もとでスズメの声がした。はっとして辺りを見廻したが、庭は静かで小鳥の影も形もない。
近頃のイヤフォンの使い過ぎで耳がおかしくなったのかと思ったが、そうではなかった。花のつぶつぶした手触りから、街路樹に群れるスズメのさえずりを連想したのだ。生まれて初めて、感触が音をたぐり寄せた。
とはいえ、この連鎖はいつもいつも起きる訳ではない。ごくたまにそういうことがある、というぐらいのものだ。
香が記憶を呼び覚ますのと似ているかもしれない。お線香の匂いを嗅ぐと、お寺の境内で遊んだ子どもの頃を思い出したり、香水の匂いから昔の人の面影が浮かび上がったり、胸がきゅっとしめつけられる、あれだ。
ただ 違うのは、なぜその音とその感触が結びつくのかわからないこと。
ひなちゃんとぶどう狩りに行ったことも、さえちゃんとお味噌汁を作ったこともない。盛山さんと発泡スチロールも、もちろん何の関係もない。
ひょっとして両者には、人類がまだ気づいていない宇宙の理があるんじゃないか…。
そんな妄想をしてみるものの、今もって謎のままである。
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