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【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #20

 そのマンションは地下鉄東西線の円山公園駅から南西へ七、八分程歩いたところにあった。まだ引っ越す前、ヘアーデザイナーが家財道具を片付けた頃に行ってみると、涼子の言う通り、なかなかいいところだった。円山の森に寄り添うように佇む四階建の三階角住戸で、リビングが思いのほか広く、ダウンライト付きの天井はおしゃれな折上げ式で、壁はコンクリート、床は本物の板張りのフロアだった。ワイドスパンの大窓をはめているせいか、眺望に広がりがあり、ちょっといるだけで開放的な気分になった。その一角にバーのようなカウンターがあり、対面式のキッチンになっていた。二面採光の出窓があり、室内に射し込む光が黒々とした影を床に描いていた。そのリビングを中心に十畳と六畳半程の洋室が二つ、広めの洗面室、浴室が合理的にレイアウトされていた。十畳の部屋には二畳程のウオークインクローゼットが設けてあり、さらに光と風が満ち渡るプライベートバルコニーまでついていた。

 涼子はもう引っ越すことに決めていて、

「ここに大きなダイニングテーブルを置きましょう」とか、「テレビは大型がいいわ。最低でも32インチくらいないとだめね」とか、「あと本棚とか食器棚も買わなきゃいけないわね」と言って、頭の中で部屋作りの構想を練っていた。

「そうだね。でも、涼ちゃんの言ってるものを全部買っていたら、お金がかかってしょうがないよ」

「何言ってるの。マンションを買うことを考えたら、高い買物じゃないわァ。田島さんって、そういうのをけちるから野暮ったいのよ」

 アパートに戻っても話は続いて、

「でも、引っ越しとなるとそれだけでも出費があるし、当分は出窓に花を飾るくらいにしようよ」

「花よりも花瓶が先よ。あっ、そうそう、ソファも買わなくちゃ」

「ええッ、ソファも? ソファは今あるので十分だよ」

「だって、このソファ、田島さんが独身の時に余市から持ってきたやつでしょう。前から言おう、言おうって思ってたんだけど、ほらッ、ここの肘掛けのところ、革が破れてるじゃない。私、こんな貧乏臭いソファに座るの、もう絶対にいやですからね。引っ越したら、リビングの陽だまりに新しいソファを置いて、イロハから部屋作りをしますからね」

「本当にちゃんとやるのかい?」

「やるわよ」

「本当かな? 涼ちゃんはすぐ散らかすんだから。家の中をきれいにしないと、新しいものを買ったって、埃をかぶるだけだよ」

「ちゃんとやるってばァ」

 どれほど涼子がやってくれるのか疑わしいものだったが、涼子が「家」に対して積極的な気持ちを持つことは悪いことではなかった。

 それから、お皿だとか、照明だとか、ファブリックだとか、本棚だとか、買いたいものがぞろぞろ出てきた。私はもう破れかぶれで定期預金を解約し、この引っ越しにかなりの金を注ぎ込んだ。だが、涼子の要求は「モノ」だけでは終わらなかった。

 引っ越した夜、荷を解いてないダンボール箱があっちこっちに散らばったリビングで、涼子はまた新たなわがままを提案をしてきた。それは新しい我が家を「糠味噌臭くはしたくない」ということだった。

「田島さん、もう毎日料理を作らなくていいわ」

「涼ちゃんが作ってくれるの?」

「まさか、私が作るわけないでしょッ。週のうちの何度かはデパートの惣菜を買って、それをおかずにして食べればァ」と涼子は言った。「だって最近、田島さんも横着をして鮭を焼いたり、目玉焼きを作ったり、そんな粗末なものしか食卓に出さないんだもの。そんな料理じゃ、せっかく買ったお皿が泣くわ。惣菜のおかずに飽きたら、外で食べればいいんだし、キッチンに立つのはビールやワインのつまみを作る時くらいにしたらァ」

 涼子は金のかかることを真顔で言ってきたが、私も料理の係から解放されることを思うと、その場で強く反対はしなかった。

 結婚した当初より給料は上がっているとは言え、生活はかなり厳しくなりそうだった。私は貯金、家賃、管理費、食費、光熱費、月々のローン、二人の小遣いなど一カ月にかかる金を想定し、十円単位まで細かく計算した。すると、私の給料よりオーバーした。私は自分の小遣いを一万円減らそうとか、ガスや電気代の目標はこのくらいにしようとか、切り詰められるところを探した。しかし、何度電卓で打ち直しても、常識のバーを越えてしまう。私はメモ用紙をもう一度見つめ、最初の項目にバッテン印をつけた。それは「貯金」で、それを無しとしない限りとても生活ができそうになかった。「田島さんって、アリみたいな人間ね」と涼子に皮肉られたことがあるが、精神的に豊かになれるのなら、(今が楽しければいいという)キリギリスになるのもいいだろう。まあ、そんな暮らしはどうせ何年も続きっこないんだから、しばらくは涼子の言う通りにやってみようと思った。

「そのかわり」

 私は条件を出した。

「もう田島さんの家だからっていうわがままは通じないからね。ここは僕と涼ちゃんの家なんだから・・・」

 ここまでは、私がまだ涼子という妻と一生懸命に生きようと思っていた時代の話だ。私には愛する人間がこの世に涼子しかいなかったから。ところがその夏から、私は変わった。それは目に見えるもの、態度に表れるものではなく、私の心の中の大いなる変貌だった。怒る女と順応する男の結婚生活にとって、それは進歩なのだろうか、それとも衰退なのだろうか・・・。


#小説 #連載小説 #怒る女 #結婚  

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