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【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #17

 確かに、そう確かに、私は欲求不満だった。

 金を出して解決できるものならと、女達が豊満な肢体を市場に開放している「ピンクの穴」とか「溜息の館」とか「立ちんぼ」いう店の前まで行ったこともあった。だけど、そういうところへ行き慣れていない男には、ドアを開く勇気はない。

 結局私は、裸の桃子を空想の世界から解放できず、現実の夫婦生活の不満を胸に抱え続けた。

 朝の風景に妻はいないもの。そう割り切ったと言っても、私の不満は涼子と一日暮らすごとに膨張した。油断をせず、涼子を警戒して毎日を生き抜いても、予想もつかない些細な言葉が涼子の心の爆弾を破裂させてしまう。甘いお菓子を食べながら仲良く野球中継を見ていても、一分後にはもう涼子に怒鳴られているのだ。

 ジャイアンツが三点リードされた七回裏の攻撃の時。ノーアウト一塁で、ピッチャーに代打が出て、その選手がセカンドゴロを打ち、ダブルプレイになった。

「あっ、馬鹿ッ、どうして打つのォ。絶対、バントだよね」

 結婚してから私の影響を受け、涼子もジャイアンツファンになり、野球にかなり詳しくなっていた。

「いや。今のはあれでいいんだ。ヒットエンドランのサインが出ていたからね」

「バントをしていたら、二塁に行けたじゃない」

「いや。あいつはバントが下手だし、点差を考えても、ここはヒントエンドランしかないよ」

 と言っただけなのに、言葉の合間に「いや」をたった二言挟んだだけなのに、涼子はもの凄い形相で私を睨み、叫んだ。

「そんなに無気になって言わなくたっていいじゃないィ! 私が野球を知らないと思って馬鹿にしてるんでしょォ!」

 涼子に否定語は禁物なのだ。反対の意見を述べてもだめ。涼子よりも優越な感情を抱いてもだめ。それを匂わせる発言もだめ。私は何を話しても涼子の怒りをかうようで、涼子の前では自然と無口になってしまった。

 もっとも私が沈黙をしても、涼子の口攻撃はとどまることを知らなかった。食事の時、私がご飯粒をちょっとテーブルに落としただけで、「子供みたいにこぼさないでよォ!」腹痛でトイレの便器に何度もしゃがみこんだ夜も、涼子はドアを叩き、「ちょっとォ、私がしようとした時に、先に入らないでよォ、早く、早く、早くしてよォ、早くったらァ、早くゥ、早くゥ! いつまでもトイレにいて臭くしないでよォ!」ああァ、お腹が痛いというのに、便器に腰掛けて唸っているというのに、涼子は待ってくれないのだ。それでいて、私が露骨にムッとした顔をつくると、涼子は蔑むように私を見て、「ねえ、何を怒ってんのォ、そんなことでむくれるなんて、小心者じゃないのォ!」と言うのだった。

 あああ! 私は口だけじゃなく、顔まで閉ざさなきゃいけないのかァと思った。

 しかし、そんな私でも一度だけ涼子に向かって声を張り上げたことがある。それは結婚一年目の記念日が終わり、「田島さんのところは、お子さんはまだですか?」と、そろそろ回りから言われだした頃のことだった。五月の陽気な空のように涼子の機嫌もすこぶるよく、しばらく平穏な日々が続いていたが、夫婦の亀裂は突然やってきた。会社から帰るなり、トイレットペーパーを切らしたのは私のせいだと言って、涼子が激しく責め立てたのだ。他人に話せば、笑えるエピソードだろう。しかし、そんな他愛ないことでも涼子は眉を吊り上げ、烈火のごとく私を罵ったのだ。

「田島さんのせいよォ! トイレットペーパーがもう残り少ないとわかっていながら買っておかないんだからァ! ほんと、気がきかないんだからァ! 役立たず! 馬鹿ァ! 馬鹿ァ!  馬鹿ァ!」

 涼子の怖い顔を見、ヒステリックな叫び声を聞いた私には、とても笑えぬ出来事だった。それは男の沽券に係わる侮辱の言い種で、しかも、会社から帰ってくるなりお帰りも言わずいきなり投げつけてきたものだから、さすがの私もムカッときた。涼子に媚びてきた女々しい夫の立場も忘れ、私は初めて妻に不満の引金を引いたのだ。

「そんなことで、いちいち僕に、文句を言うなよォ!」

 ・・・お、おとこが・・・男が叫べば・・・女は、びびるはずだあ! 急に気弱になり、恐れ入って、どうもすみませんと両手をついて、謝るはずだあ! そこから強固な、本物の愛というやつが、生まれるはずだあ! だけど、内の妻は、内の妻子は、違うんだあああ!

「何だってェ!  よくも私に怒鳴ってくれたわねェ! もォ、ただですむと思うんじゃないよォ!」

 声にいっそうの凄味を加え、私を洞喝してきたのだ。私は戦き、返す言葉を失った。

 ・・・妻を悲しく睨んでいた視線が虚ろになると、私は首を曲げ、隣の部屋に目を遣った。ああ、あそこにベッドがある。・・・あそこに早く逃げ込まなくては。・・・わずか七、八歩の距離だったが、暗い夜道を歩くように、私は足元に目を落としながら歩を進めていった。スーツの上着を脱ぎ、それを、それを丁寧に、丁寧にハンガーに掛けようとしたが、したが、したが、腕が怒りにぶるぶると震えてきた。

「あああああ!」

 私は叫び、手に持っていた上着を振り回して壁に叩きつけると、ベッドに倒れ込み、頭から布団をかぶった。

 小さく丸まっても、気持ちが怒りで昂ぶっていた。どうして自分がトイレットペーパーのことで責められなきゃいけないんだろう。どうして妻は誰かを悪者にしないと気がすまないんだろう。腹が立つゥ! 私は涼子が憎くて、憎くてしかたがなかった。そして自分が不憫で、可哀想でならなかった。夕飯なんて作ってやるもんか。こんな時にキッチンに立つほど、俺はお人好しじゃあないぞおおお! しかし、自分をお涙頂戴の悲劇の主人公に仕立てようとしても、涼子を憎み切ろうとしても、心は美しい思い出を追いかけていた。己の意志とは関係なく、涼子との出会いから今までのことが次々に溢れてきた。頭をぽかぽか叩いても、髪の毛を掻き毟っても、回想が狂ったように止まらなかった。振り返ったら最後なんだぞ。もうおしまいなんだぞ。涼子と別れる気なんだな。そうなんだな。別れるんだな。後悔はしないんだな。お互いのためにそれがベストなんだな。本当にいいんだな。じゃあ別れればいいさあ!

 涼子と別れたって、俺には桃子がいる。まだ子供もいないし、やり直しのきく年齢だ。

 離婚の原因は?

 トイレットペーパーだああああああああああああああああああああああああああああ!


#小説 #連載小説 #結婚 #怒る女

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