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【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった  #22

 三十代も半ばを過ぎると、男は過去の女を忘れていく。まず名前が思い出せなくなり、容姿も記憶になくなり、裸も忘れ、脱がせた下着の色や形だけが妙に艶かしく残る。次々に女を忘れていき、胸ン中の宝箱に最後まで大切に保管しているのは見返りを期待せずに十代の頃に一途に愛した女だけだ。

 しかし、だいぶ前のことなのでその記憶は定かではない。

 私は二十歳の夏に、森高美佳と一度だけドライブをしたことがある。これは事実だが、自分の人生の名場面として憶えておこうと思っても、年齢とともにあの日の記憶は薄らいでいく。彼女とドライブをした初デートの日は妻と出会うよりも遥か昔のことで、あの日を思い出すことは地中深くに埋もれていた化石を発掘し修復するようなものだった。頭の地層に鮮明な形で残っている部分もあれば、記憶が欠落している部分もある。

 私は押入の奥の茶箱にしまってある日記を久々に開いた。しかし、当日は気分が高揚していたのか「美佳とドライブができてよかった」的な、大学ノート二行の短い簡素な言葉しか書かれていなかった。

 私はその夜から美佳が脳裏に花火のように現れる度に、あの日の記憶を掘り起こし、不明なところは想像の(もしくは妄想の)パテで繋ぐようになった。そうやって歳月を掛けて博物館にでも飾りたくなるような青春期のメモリーを私は再現していったのである。

 帰省し免許を取った二十歳の夏、初めてのドライブに、森高美佳を誘った。美佳は高校の同級生で、私にははるか雲の上に住む憧れの存在だった。私はどんなに鏡を見ても雲の上に昇っていける男ではなかったから、ただじっと下界から眺めているよりしかたがなかった。眺めるだけでも幸福で、彼女と廊下で擦れ違っただけで心は甘く満たされた。その幸福感だけで高校の三年間を送ることができた。が、卒業し、会えなくなってから、幸福の量は日毎に減ってゆき、二十歳の夏に心がからっぽになった。私は美佳と会う決心をし、ドライブに誘った。震える声で自宅に電話をすると、彼女は「いいわよ」と言って、拍子抜けするほどすんなりと応じてくれた。私も高校時代はいちおうサッカー部のレギュラー選手で、顔と名前は知っていたかもしれないが、いっぺんも口をきいたこともない男の誘いを、彼女は快く承諾してくれたのだ。それは彼女のようなひっきりなしに男からデートの誘いがあるような娘には、特別なことではなかったのかもしれない。

 美佳は日取りの選択権を私に与えてくれた。

「明日だと二時までしか時間がないの。それでも、いい? 日曜なら一日中空いてるんだけど」

 私はすぐにでも会いたかったので、迷わず明日を選んだ。そして、十時に迎えに行くと美佳に伝えた。

 美佳は森高商店という酒や乾物類を販売する店の娘で、高校卒業後は店の手伝いをしていた。

 私は父親のカローラで彼女の家まで迎えにいった。美佳は白いブラウスの上に蓬色のカーディガンを羽織って店から現れた。助手席に乗り込んでくると、微かに香水の甘い香りがした。私は小樽へ行くと美佳に告げた。

 ふごっぺ海岸沿いの国道五号線を走り、トンネルを抜け、蘭島に出ると、フルーツ街道に入った。三十分足らずで天狗山の麓の小樽の最上町に着き、そこから緑町を走り抜け、商大通の地獄坂から旭山の山道へ折れた。頂上の青と緑の世界に展望台があった。タイタニック号の船の舳先のように前方に遮るものがなく、二人の前には小樽の街と潮っぱい海が広がっていた。

 そこに半時間近くはいたと思う。何を話したのか全部はもう分からないが、美佳の顔をよく見続けたことは覚えている。視線を反らす必要もなく、肩がぶつかるほどの特等席からこんなにもまじまじと美佳を見るのは初めてだった。額、眉毛、目、鼻、頬、耳、口、顎・・・顔の作りのひとつひとつに目を止めた。そのすべてが指先で触れたくなるほどきれいだった。すべてが私の胸の中にいる高校時代の美佳のものよりも色気があった。やや張れぼったい下瞼が支える黒く澄んだ瞳、女の子らしく言葉が饒舌に通り抜ける唇はもう少女のものではなかったが、美人に有りがちな傲慢さはこれっぽっちもなかった。

 愛想のいい表情の明るさは、腹の内の清々しさのあらわれで、こんなにもきれいなのに、その美貌を褒めたたえるまえに、なんていい子だろうと思わずにいられなかった。美佳が放つオーラは恋人が与えてくれるような安らぎがあった。そのことをきちんと認識していないと、自分に好意を寄せているのだと妙な錯覚を抱くおそれがあった。

「森高さんはどんな男と結婚するんだろう」私はポッと尋ねた。

「どうしてそんことを知りたいの?」美佳は私の質問に笑い出した。

「ずっとそんなことを考えていたから」私は言った。

「私はいままでだれともつきあったことがないの」美佳は笑いながらも、きちんと答えてくれた。「いまもおつきあいをしている人はいないし、どんな人がいいのか、わからないわ。でも、結婚って、愛の大きさじゃなく、運命だと思うの。私はそれに従うだけ」

 それが青春時代に森高美佳に会った最後だった。私は旭山を車で降りたあとの記憶がない。昼にどこか港のほうで食事をしたようにも思うし、それはひょっとしたら私の妄想で、そのまま余市の彼女の自宅へ予定よりも早く送り届けたようにも思う。

 私はその時の二十歳の幸福で、それからの人生を生きている。川村涼子と出会って幸福を感じたのは実は錯覚で、美佳がくれた幸福がまだ胸の底に残っていたからなのだ。

 通勤時の東西線の地下鉄の吊革に手を掛けぼんやり窓を眺めている時や深夜眠りに陥る前に枕の収まりが悪く寝返りを打った時、もしくは妻が何かを怒鳴っている時などに、美佳は現れた。

 私は、どんなに仕事のことを考えていても、どんなに眠たくても、どんなに妻の怒声に耳を傾けなきゃいけない時でも、美佳を頭から追い払おうとはしなかった。むしろそこへ逃げ込むように、彼女と彼女がいた時代を私は愛おしく思い起こした。思うだけでかつて彼女が自分に与えてくれたような幸福な温もりを感じとることができた。


#小説 #連載小説 #怒る女 #結婚

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