例外を認めることと、例外を作らせないことの違い
森発言をきっかけにジェンダー論争が完全に政治問題化しつつあり、最近のジェンダーに関する話題は多くの人々にとっては政治色が強すぎて、足を踏み入れにくい領域になりつつある(支持すればリベラル、沈黙または反対すれば保守派というレッテルを貼られるのは間違いない)。
政治に興味のない多くの人は、自分の周囲だけは炎上しないよう慎重に当たり障りのない反応を示す、という形でうまく対応しているようだ。成田闘争や辺野古基地移設問題が、当初は純粋な地域の利害解決として運動が始まったにもかかわらず、政治思想活動家の関与によって問題がさらに歪められ、地域が分断されてこじれていったのと同様に、ジェンダー問題も今後アンタッチャブルな政治問題へ転化し、さらに思想が絡んでこじていく可能性が十分あるのではないかと感じる今日このごろである。
ところで、昨今の差別を解消しようという動きには大きく2つの方向性があるように思う。
(A)社会として一定の区別やあるべき基準を設けつつも、そこから外れた例外事例に対しても配慮しようという運動。
(B)そもそも区別をつけること自体を是とせず、誰もが平等であることを訴えようという運動である。
私は前者については積極的に推し進めるべきと考えるが、後者に関しては基本的に反対である。
例えばLGBTの問題。生物学的に(学問的にはY染色体の有無により)多くの人間が「男」と「女」のどちらかに区分されていることや、「男」と「女」が性的行為を持つことにより子どもが誕生するという事実は、人類の歴史がはじまってから長きにわたって当たり前とされてきた知識である。一部にトランスジェンダーや同性愛という「例外」があろうとも、生物の根本的な使命である「繁栄して子孫を残す」という本能に照らして、『「男」と「女」が関係を持って子孫を残す』ことがヒトにとっての「標準行動」であるということは、現代でも大多数の人が賛同する考え方であろう。
実際に子供に性別のことを教えていても、「標準がある」ということは教育上極めて大事であるということはいつも痛感する。早ければ1歳半ぐらいから子どもたちは、本能的に人間に「性別」があるということに気づき始める。教えてもいないのに、やたら性器に興味を持ち、その存在を確認する行動を繰り返しながら、3歳ぐらいからはその有無を指標に自分とママ、パパは同じ種類の人間なのか、違う種類の人間なのかということを何度も親に尋ねるようになる。そういう時期に「人には「男」や「女」という性があり、ペニスがあるあなたは男だ、ペニスがないあなたは女だ」という分かりやすい「標準知識」があることは、子供の理解にとっても親の説明にとっても大きなメリットがある。もしここで多様性が大事だからといって「トランスジェンダー」や「クィア」のような、容易には理解しがたい概念を同時に説明すれば、子どもたちは性の多様性を理解する前に、性概念を理解すること自体が難しくなるだろう。(3歳児にトランスジェンダーを説明する難しさを想像してほしい)
私は教育学については詳しくはないが、人間の理解の構造として、まずは単純化した大きな対立概念を習得し、それを自分の中で確立した上で、オプションとしてその例外事例を学習するという流れは、幼児であっても大人であっても同じだろう。
「標準」を定義した上で、例外となる人々にも、標準としての地位は与えないが、標準に近い権利を認めていくというのは、いろいろな意見がいる人の中で、社会的に穏健で実現可能な権利向上の取り組み方のように思われる。民法というのは国の婚姻ルールを規定する「法」としての役割がある一方で、六法の一つして、社会の「標準形態」を暗示する役割がある重要な法律である。同性婚を認めるというのは行き過ぎで、あくまで異性婚を標準としつつも、「例外」である同性婚にも別の特別法や条例でそれ相応の権利を認めていくという方向性が大事だと考える。
一方で「リベラル」活動家の多くは、(B)のような考え方を推し進めようとする場合が多い。このやり方は一見誰もを平等に扱っているようにみえて、実は別の差別主義やエリート主義に陥りやすい側面を持っている。なぜなら多様な人を平等に扱うには、複雑な背景を理解できる知的リソースを持っている必要性があり、前提としてある程度の教養や精神安定性、自らが置かれた立場の安定性が必要だからだ。端的に言えば、「余裕がある人」しか取り得ない道を正当とし、それ以外を「無知」としてバカにして新たに『差別』する文化が彼らの中には常に観察される。そして彼らはその差別に往々にして無自覚だ。
人文系アカデミアに(B)のような考え方の人が多いのも、収入や仕事内容の面で、自らの立場がある程度安定しているからこそ可能なのだが、彼らはそれを自覚できていない。手持ちの資源が乏しく、他人や他社を出し抜いて本気で毎日競争しないといけないような環境では、多様な人に配慮を行うこと自体が大きな負担となる。コロナ禍で障害者枠で雇用された人々が次々と解雇されている現状をみれば、その厳しい実態は理解されるだろう。
さらに(B)には「標準」がないゆえに、多様な人やマイノリティ同士が起こす深刻な揉め事に対して「仲良くしよう!」と言うだけで、何の解決もできないという深刻なシステム上の欠陥がある。多様な人々はその多様性ゆえに、各々が持つ考え方や利害が互いに真っ向から対立するリスクを常にはらんでいるが、それに対して現実的な裁定を行うには何らかの「標準」や「判断基準」がなければいけない。結局の所は、マジョリティや彼らの擁護する特定の思想を「標準」「守るべき価値」として、押し付けざるをえなくなり、彼らの主義主張の論理的な根拠は破綻するのである。
女性の地位向上問題にしても、古来からそれなりの女性が妊娠出産という命の危険すらある大役を担ってきた中で、男女の間で社会的役割にある程度の差があってしかるべきであり、それを完全平等にしようとするのは、ネイチャーに反することであろう。むしろ大事なことは、生物学的な男女差という、男女それぞれがもつ「普遍的な違い」に対して、今の社会における「性的役割分担」が程度としてマッチしているのかという点であり、男はもう少し育児に関わるべきだし、女が妊娠出産でキャリアに不利益が出ないように制度は改革すべきだろう。また、この「標準コース」に当てはまらない例外(独身者やDINKSなど)にも、いろいろな面で配慮していくということは続けていく必要がある。
しかし、「誰もが自由に平等に生きる権利」が強調されすぎて、「男女が交わって子孫を残していく」という人間が古くから続けてきた標準的な営み自体を肯定しないような社会は、結局自滅していくだけで本末転倒な思想ということになる。この点は最後まで人間が守るべき「標準」ということになろう。
私は表面だけのフラットな「平等な社会」や「差別のない社会」より、平等ではないけれども、区別や小さな差別はあるけれども、「いろいろな例外に対して寛容な社会」や「例外を自信をもって受け入れられる社会」を望みたいと思う。
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