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#136 諦めるのは明日にする

開いたドアから外へ出ると、向かいの艶のあるタイルに反射した陽光が目に刺さって視界が真っ白になった。そうだ、今日はお天気がいいのだった。
仕事を終えてほっとして、2月らしからぬ陽気に嬉しくなる。
大きく息を吸う。
マスクの中で鼻がぴぃと鳴った。

仕事場は大概厚いカーテンが引かれていつも暗い。駅までの道のりをせっせと日光浴しながら歩く。スーツ姿の人の間を縫って横断歩道を渡る。太陽の光で頭のてっぺんが微かに温かい。帰ったらお昼に何を食べようか、買い物に寄って帰ろうか、と考える。鳴く前に胸を膨らませる小鳥みたいにふわふわと幸福感を膨らませて、わたしはとても気分が良かった。その時までは。


帰宅して一息ついた時、今日書こうと思っていた書類が目に留まった。確か期限まであまりなくて、添付書類を夫にお願いしていたことを思い出した。
今オフィスにいるなら印刷してもらって、夕方受け取れば今日中に投函できる。ちょうどいいや、とLINEしたのだけどなかなか読まれない。
仕事中だしね、と切り替えてお昼の準備を始める。

何となく胸騒ぎがして車のAirTagの位置を見てみる。
車はずいぶんと遠いところにいた。
ここから80kmと表示されている。遠い。それに馴染みのないところだった。
拡大してみると葬儀会館とホテルの名前が出てきた。
車の居場所を示す青い点は、ホテルの上にあった。

内臓が、急に動くのをやめてすっと下がったような感覚
次の瞬間、多重人格なわたしの脳が『いやほらさぁ、GPSってズレるし』と軽い調子で言う。鼓動が早くなる。表示されたホテルの名前を調べる。
ほぼ確信していたけれど、それは大人が利用する類のものだった。


もう脳は何も言わなかった。
身体は冷たく強張り、空腹感は消え失せた。

AirTagは夫が自分で車に載せているものだ。
なのになぜ?なぜ堂々と?わたしがあまり位置情報をチェックしていないと踏んでいるのか。わからなかった。

あと1時間もすれば、息子が学校から帰ってくる。
普段通りに迎えなくては。落ち着かなくては。
右手を握りしめる左手の爪が食い込んで、痛いことにハッとして手を緩める。
全然飲みたくないコーヒーを淹れて、半分だけ流し込む。

何かしようと本を読むのだけれど、文字が滑って読めない。
いっそ電話しようかと思い「電話できる?」とLINEを送った。
既読にならないので消した。
ピアノを弾く。それでもわたしの脳は目に映る楽譜とは全く違うものを見せ、話しかけてくる。
ずっと昔見たドラマのワンシーンが再生される。なんで脳はこんな時に急にこんなもの出して来るんだろう、と思ったらいやに詳細にストーリーが蘇ってきた。夢を抱いて上京してきた女性が、風呂場で熱中症に見せかけて命を奪われてしまう。その状況の描写も、犯人の怪奇的な話し方も、生々しくて顔を背けたシーンだ。恐ろしかったと言う感情が、砂場の砂を両手で山にするみたいに確かなものに形を成していく。忘れたいのに主題歌やキーワードが次々と襲いかかってくる。
何か違う映像を映そうとしたら今度はなぜか、余命わずかな女性と、彼女を救うために奔走したけれど手を尽くしてしまった男性が涙を流してダンスする映画の場面になる。ちっともハッピーじゃない。そう思った瞬間、その男性はジェームス・ボンドと向かい合ってテーブルに座っていた。カラスが飛んでくる。もう、めちゃくちゃだ。まるで夢でも見てるのかなというような脳内をミュートにして、ほとんど勝手に動いている指をぼうっと眺める。ピアノから離れる。

10分、30分、1時間経っても依然、青い点は頑なにその場所から動かなかった。スクリーンショットを撮る。


息子が帰宅し、さっきまでの自分はソファの下へでも追いやる。
意識して口角を上げ、高い声で出迎える。
もう今は母だ。
彼の目を見て話を聞いているのに、内容がうまく入ってこない気がする。

宿題を見ている最中に夫から電話がかかってきた。
今アポが終わったとこで、返事できなくてごめん、と言う。
いつもの声だけど、口数が多い。
「いいの、仕事中にごめんね。オフィスにいると思ったから」と謝る。
戻ったら印刷して持ち帰るよ、と言って電話は切れた。

息子が全然漢字ドリルをやらないで、全身耳にして会話を聞いているのがわかった。悟られてはいけないとなぜか強く思い、聞かれてもないのに「パパ今日は帰るの早いんじゃないかな」と言う。やったー!と喜ぶ彼に宿題をやるのを促して、今日はカレーね、と約束して習い事に送り出す。

食欲ゼロで作った割に、美味しいカレーができた。
美味しくて、悲しかった。
お腹が痛くなる毒でも入ってればいいのに、と思った。
もちろん、夫のお皿にだけ。



夜、全員揃ってテーブルにつく。
甲斐甲斐しく妻らしく、美味しくできたカレーを夫にもよそった。
馬鹿馬鹿しくて腹が立った。
息子にも大好評だったのが今日一番嬉しいことだった。おかわりのルーを入れるのに付いて来るこの子を不幸に染めたくないと思った。



1人先に寝た息子の様子を確認して、夫と話そうと思った。
ところがお風呂にいた夫が「お腹が痛い!」とタオルを巻いて足早にトイレに駆け込んでいった。毒なんて入れてないのに、念が通じたのかな?と思うと同時に、またわたしの脳が言う。

『探してみなよ、何かあるかもよ』

今日夫は携帯を肌見離さない。いつものように充電したままお風呂に入らないのも何かあるのか。
仕事の鞄が無造作に置かれている。
失礼します、とそこからコインケースを取り出した。
あまりにもあっさりとそれは見つかった。
わたしが毒なんて盛らなくても、夫が自分で飲んだのだ。まだシートには1錠残っていた。
もうどうでも良くなった。わたしの感情は湖のように静かだった。
トイレから出てきて咎めるなら何とでも言えば、という心持ちで次はカード入れを取り出した。
名刺の間に妙なポイントカードがあった。
“コーヒーショップ ナイル 24時間全店営業“
ポイントと、その付与日が印字されている。最終利用日は去年の日付けだった。

スターバックスもタリーズもドトールも、彼のオフィスの近所には山ほどある。なぜそんな聞いたこともないカフェに行くのか。不自然だ。
裏には各店舗の電話番号が20件ほど載っている。
非常な違和感があった。こういう時の鋭さには自分でも驚く。
これも少し調べればすぐにそうとわかった。




ただただ、情けなかった。悲しかった。
こんなにもわたしは軽んじられているのか、と。
あの人はそんなにも自分が可愛いのか、と。

世界中には文字通り色んな夫婦がいるのだろう。
昨年の一件があって、もう夫も懲りただろうと思っていたし、関係改善のためにわたし自身努力を重ねてきた。
でも、夫婦関係についての書籍を読み、セミナーを視聴し、体験談や相談のポッドキャストを聴き、コンパッションビームを送っていたのはわたしだけだった。

夫はわたしに変わることだけを期待して、自分は相変わらず依存症とのぐずぐずした関係を拗らせていただけだった。それに気づいて無性に悔しかった。

どうしようか。ここでわたしが「怒り」という鎧を着て闘争モードでいくと、夫は「責められている」と認識して逃走モードになってしまう(学びが役に立ってる)。だから怖いけれど、自分の中の柔らかな気持ちを夫に話して、何が悲しくて何が嫌なのか、どうしてそういう行動になるのかを問うことにする。


別れるのは簡単。
(もちろん離婚となるととてつもなく消耗することは色々と聴きました。頑張られた方々にはどうか幸せな人生が待っていますように)

こんな人ともう離婚すればいいのにと言う人もいる。
一度でもした男はね、かならずまた同じことをするよ、と何人に言われただろう。
確かにそうなんだろうと思う。
実際、そのレベルまで来ているのかもしれない。でも長いこと自分に問うて来て最後に出た答えは、「まだ終わりにはしない」という選択だった。
この人はわたしが自分の夫に選んだのだ。自己責任論の話じゃない。
夫という人はこんなだけど(そう!こんなだけどね!!)一応わたしと息子を大事にしてくれているから、というのがある。そしてそこは嘘ではないのだろうと思えることもたくさんあった。

そして子供にとって、1人しかいない父親でもある。
少なくとも子供が社会に出るまでは、わたしは家庭という安心安全な場所を温めておきたいと思っている。

苦しい選択だったけれど、今ならまだ間に合うと信じて、自分で閉ざしかけた心を開く努力をしたし
夫の心を思いやってわたしから歩み寄ろうとした、つもりだった。


それでも夫が時間・お金・健康という貴重なリソースを割いて自らの欲を収めに行かなくてはならないとは一体どういうことなのだろう。わたしが受け止められないから、ということに終始させるなら、もうわたしこそ用済みなんじゃないのか。
そう思うと孤独に襲われた。

「でも、」と声に出して言う。
わたしには守るものがあって
やるべきことがあって
ちゃんと1人の人間なのだから

諦めるのは明日にしよう。しゃんと立ってないといけない。
だから夫と話をすると決めた。


1人薄暗いリビングでイメトレしている時、夫はトイレで吐いていた。
そんな副作用があるということは聞いたことがあったので、バチが当たったのだと思った。


諸々を終えて部屋に来た夫は何か察したようで、ソファに並んで腰を下ろした。

前置きは無しに「今日本当は何をしていたの?」と訊いた。

会話を全部書くことは遠慮するけれど、
夫はまた嘘をついた。

再び大きな悲しみがわたしを揺さぶる。
『もう終わらせちゃえ、またどうせ同じことが近い将来起こるんだから』と脳がいう。でもグッと堪えて「本当のことを話してほしい。嘘をつかれるのは悲しい」とお願いした。

結局夫は自分からは話さなかった。
仕方なくわたしが、さっきの体調不良は薬の副作用だと分かっているということ、今日LINEを送った時にあなたが何をしているのか分かってしまったのだいう旨を話した。

夫は項垂れて聞いていた。
今日薬を飲んだことは認めた。
どうしても、わたしが埋められない場所を埋めたいという衝動を抑え切れないのだとポツポツ話した。頭では妻のことを求めているし、大切に思って傷つけたくないと思っているのに、衝動を止められないのだと。

「止めようとはしているの?」と尋ねた。
「たとえばその衝動が湧いた時、他のことで紛らわすとか、カウンセリングを受けるとか、瞑想して自分の内面と向き合ってみるとか」とも。

夫はどれもしていないと言った。でも妻(わたし)にそれを向けることは理性で抑えている、と。
妻を傷つけることも頭ではわかっている。かといって妻を無理矢理思い通りにすることもできない。欲は満たさなくても死なないと言うけど、この感覚は女性にはわからないと思う。だけど恥ずかしくて相談できなかった と言った。

わたしは黙って聞いていた。
またわたしの脳がいう。
『衝動を抑えられないってまずくない?』
『わたしを傷つけないために他の手段をとっていることが、結果的にわたしを間接的に傷つけてるってことには無頓着じゃない?』
『情緒的飢餓だけが原因なら、不倫の方が可能性高くない?見誤ってる?』
『それさ、もはや治療がいるんじゃない?』


慎重に選んで言う。

薄々思っていたことなのだけれど
あなたはいわゆる依存症に近いのかもしれないよね。
前は情緒的飢餓がそうさせているのかと思った。わたしの愛情が足りていないなら謝る。
でも衝動はそれだけでは説明が不十分に思えるんだよね。

“病気“ってラベルを貼った途端に「病気のせいだ」と開き直って欲しくはないんだけど、もし本当にそうなら打つ手はあると思う。
わたしは、そこから抜けることを手伝うことはできても、あなたを変えることはできない。
だからあなたが「変わりたい、抜け出したい」と本気で考えているのなら、まずは衝動に対して手近な対処療法で臨むのを一旦やめたらいいと思う。辛いと思うけど。

あなたがわたしに対して「変わってほしい」と願ってもわたしが簡単に変わらないのと同じで、それはお互いに理解できていないからだと思う。

あなたがわたしに対して「欲しい」と思っているものは、果たして今のわたしがと差し出せるものなのか、自信がない。多分今のわたしには差し出せないと思う。だってそこまでの信頼関係も、準備も、できていないから。
息するみたいに嘘をつかれたら、あなたを信じられない。誰だってそう。

わたしが出ていくか、それともあなたがそこから抜け出すか
そろそろ決める時なのかもしれない。

いつまでもダラダラするのはやめよう。
あなたがわたしと同じ気持ちでいるなら、本当の問題に向き合って、家庭を壊さないで済む方法を探ろう。

と伝えた。

いつも言葉が少ない人だから
「どう言えばいいんだろう…」で会話が進まないんだけど
この日はわたしの伝えたいことがはっきりとあったので、ボールを投げて待つことにした。
果たしてボールは受け取ってもらえたのか。
1週間もすれば忘れ去られてしまうのか
わからないけれど

いつか本当に見切りをつけないといけない時が来るかもしれないのも事実
その準備もあることも伝えた。(夫も知ってるけど)


仲睦まじい夫婦を見ると「いいなぁ」と思う。
でも夫婦にしかわからないことって幾つもあって普通だと思うようになった。
いつか夫の嘘なんて可愛いさ!と笑い飛ばせるサイズになるんだろうか。
重ねられた嘘が小さくなることがないなら、自分が大きくなるしかないのか。
それとも、もう諦めてしまうか。
子供がいなかったらとっくに終わっていただろう夫婦関係が、こんなにも不可解なものに育っていくとは結婚当初は露ほども思わなかった。
こうやってわたし側から書くと、いかにも夫が不甲斐なくてだらしない人に映ると思う。でも実際にはわたしだってかなり意気地のない妻なんだと思う。過去のトラウマから夫に心を開けなくなって久しい。でも「さぁどうする、この人と別れる?」となると諦めきれないでいる。
結局のところ似たもの夫婦なのかもしれない(わたしは不貞も裏切りもしてませんけどね)。情けなくて涙も出ないけど、こうやって頭の整理をする体力がまだあることに感謝して。
諦めるのは明日にして、今日に希望を持ってみたいと思う。


ずっと泣いていたわたしへ

るる

https://note.com/atsuatsu

夫婦関係のあれこれをとてもわかりやすく、優しい語り口でお話しされている素敵な方です。Voicyもおすすめです


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