見出し画像

#31 わたしの色、ぼくの知らない僕のいろ

お色直しに淡いブルーと白のドレスを選んだ。

ピンクを着てみたかったけれど、どうもしっくりこなかった。
式の後で「ブルーだろうなと思っていたけど、あのブルーはあなたにぴったりで忘れられない」とたくさん言ってもらった。お世辞分を多めに差し引いても余りある嬉しい感想だったので、今も胸に大切にしまっている。一瞬でもピンクを着たいと思ったわたしにニヤリとしておいた。
わたしはわたしを知らなかったけど、わたしの思う「ピンクの似合うキャラのわたし」はもう葬ったのだと思えた時、急に愉快な気持ちになった。
式が終わって2日後には、30cmほど切ってショートヘアにした
ただただ楽しかった

なんとなく認めたくなかったけれど、わたしは内向的なひとだと思う。
外交的なひとが快活で明るく見えるから、その反対側となると・・・わたしはそうじゃない、と決めてしまうのが嫌だったのかもしれない。でもそれって完全にわたしの偏見で、思い込みだった。

BIG5クリフトンストレングス16personalitiesなどたくさんの自己分析ツールを試した。(引っ張られると怖い気がしてスピリチュアル系は避けてきた)
わかったことは、人の性質を「外交的or内向的、あなたはどっち?2つに1つ!」なんてツールは一つもなかったってこと。夕方の空の色やステレオの音量の様に、グラデーションで分布してるということ。「どちらかというと、こっち寄り」というだけのこと。高精細な画面に映るものの方がよりリアルであるのと同じで、解像度が低ければ(例えば0〜100じゃなくて5段階評価だったり)「すごく大雑把なわたし」の像が浮かび上がる。それを見て「やだ、わたしってやっぱりこうなのね」と一喜一憂していたら、そりゃ自分のこと何にも分析できてないわけよねと腹落ちした。

すごく勝手な話なんだけど、息子には広い世界を見て、たくさん刺激を受けてほしいと思ってた。外国へ行ってその土地の文化を学び、少しそこに染まり、それでも染まらない部分を発見する。そうやって自分を改めて見つけて欲しいなんて考えていた。だけどわたし自身はどうかというと、そうやって見つけた部分もあるけれどほとんどがそうでもないじゃないか。つまりエゴをエゴだと気づかずに親ぶって息子を見ていたと気づいた。
はじめに言ったようにわたしは内向的なので、一冊の本や一つの体験から自分の中を掘り下げていくようなことが多かった。だからその分外へ飛び出して行って肌で感じた刺激は、余計にフレッシュで生々しく刻まれているのかもしれない。刺激に弱い人にとってこのやり方は少々残酷かもしれない。消化する前に疲れ果ててしまうから。
なので息子はどんなタイプなのか、刺激を欲しているのかなんかをもっと観察しないといけないと思った。

5歳という年齢の彼を眺めるのは興味深い。
心理学的には、彼にはまだ自他の区別がつかないらしい。
今の彼に「そんな言い方したらダメよ。もし君がお友達に同じこと言われたら嫌な気持ちでしょう?」と言ったところで(うなづくだろうが)理解できないらしいのだ。そんな彼が自分で自分を発見するなんて至難の技だろう
側で見ているわたしにはうっすらと見えるその輪郭も、もしかすると思春期を迎える頃にはすっかり変わっているかもしれないから、あんまり乱暴に決めてかかるのもよくないよな、と色眼鏡をかけそうになっては外そうと苦労している。

小さな彼は黄色が似合う。
アースカラー好きなわたしのせいで地味な色で溢れる引き出しの中に、母が買ってきた黄色の服はよく目立つ。
そして彼自身は黄緑と紫が好きだ。全くもってバラバラだけど、いい感じでグラデーションができている。これから彼は自分の中に何色が似合う自分を見つけるのだろう。15年、20 年、30年後に彼のクローゼットを覗くのがちょっと楽しみになった。

懐かしい、若い!

るる


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?