桃、眠る冷蔵庫は光る照らすタイムカプセル
昔から、「長い期間」に対する意識が薄い。
長期間、たとえば4~5年間やっていた習い事(ピアノ)もあったはずで、その間コツコツ積み上げる努力とか、その長い時間によって培われるできることはたくさんあるはずなのに、そもそも「長い期間」の感覚が薄いから、「全然できてない」と思ってしまう。
はじめる前の、ピアノが弾けなかったり、楽譜が読めなかったりしたわたしと比べれば、歴然の差のはずなのに、過去、できなかったわたしはすっぽり抜けていて、「これしかできない」と絶望する。
「これだけできるようになった」「この時間をかけて、これだけできている」という感覚が乏しくて、ずいぶん、苦労した。
長い期間かけて、コツコツ取り組めば、何事もある程度できる器用さが、わたしにはある。
それも悪い方に作用して、「なんとなく手先の器用さで、なんでもそれなりのクオリティでできているだけ」と思ってしまう。
そこにずるさとか、(努力しているはずなのに)努力していないと思っているがゆえの後ろ暗さを思ってしまっていた。
30代になったいま、こうした考えはある程度なくなって、コツコツ取り組める自分の真面目さとか、「どれだけできるようになったか」、過去の自分からの成長に目を向けるようにしている。
が、長年の思考の癖はなかなか抜けなくて、何事も一足飛びにはよくなる、上達することはあんまりないのに、焦ったり、変わらない現状にちょっと落ち込んでしまったりする。
日常の生活とか、仕事とか、そうしたものに追われて、疲れてくると、視野が狭くなってしまって、いましか見えなくなって、とたんに癖が顔を出す。
過去と未来が断絶されてて、いま・なにもできない(ように感じてしまう)わたしが、一人取り残されている感覚。
よく小さいころ「みんなどこにいるの」と叫び出したくなったことを思い出す。
続いてきたはずの、生きてきた過去、積み重ねてきたものの瞬間の連続を思い出せず、自分の所在がぐらぐらと揺らぐ瞬間が、たまにある。
今年の夏は、桃を頻繁に買う。夏のフルーツの中でも桃が一番好き。
とろっとしていて、甘くて、香りも甘美な感じがする。
まだ熟れていなくても、皮のまま細かく切って、サラダに混ぜると、塩味の間から、桃の爽やかさが顔を出してきて、嬉しくなる。
桃の食べ方で、「桃のアールグレイマリネ」を知った。
多分、インスタグラムかなにかの、グルメ系のアカウントで見かけたんだと思う。
作り方は、こちらを見てみてください。
桃も、紅茶も好きだったので、さっそくやってみた。
この作り方だと、アールグレイを使ったり、ホイップクリームやミントを使っているけれど、思い立ったとき、家にこれらはなかった。
安い、普通の紅茶とはちみつがあった。
これでもいいか、と桃をいつものように向き、くし切りに。紅茶の茶葉を指ですりつぶしながらまぶし、はちみつをかけた。
冷蔵庫で冷やせば完成。意気揚々と、作った。
ちょうど午前中に作って、在宅で仕事をしていた。
水を飲もうとしたり、お昼ご飯を軽く食べようとしたり、その度冷蔵庫を開けると、桃のマリネがいる。
うわーおいしそう、でももうちょっと冷やそうかな。紅茶の茶葉をできるだけ開かせてから食べたいな。
冷蔵庫の中の桃は、いつしかわたしの楽しみになって、その日一日、じんわりとあのピンク色が胸に染み出してきている感じ。
ちょっとだけ、うれしい、というやわらかい気持ちになっていた。
そうだ、明日の朝に食べよう。朝ご飯として。
寝る前に、なにもかわらず冷えている桃のマリネをちょっと見て、その日は眠った。
タイムカプセル、というものがある。
不確定な未来に向けて、いまを残すためのカプセル。
その日の桃のマリネが入った冷蔵庫は、わたしにとってのちょっとうれしいタイムカプセルだった。
未来、とまで大げさではないけれど、あと数時間後の明日までの道程を、小さな光で照らす、一歩を元気に踏み出すためにはかけがえのない、タイムカプセルだった。
翌日。
桃は十分冷えていて、美味しかった。
紅茶は、おそらくアールグレイではなかったから、風味は薄かったけれど、それでも昨日のわたしがこしらえたちょっとした贈り物だと思うと、うれしく食べられた。
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