これは明日、誰かがみる景色映画「ファーザー」
アンソニーホプキンスがアカデミー賞主演男優賞を獲得した映画「ファーザー」を観た。現在上映中。
認知症を患い始めた81歳の父アンソニーを心配し、家に通う娘のアンは恋人に誘われたパリ行きを迷っていた。アンソニーはプライドが高く、1人で大丈夫と意地を張り、アンが依頼した通いのヘルパーをすぐにクビにしてしまうのだ。
そんな娘の様子を訝しく思うアンソニー。通いのヘルパーはすぐ人のものを盗むし、アンは英語も通じないようなパリに行くのだと言う。かと思えば見知らぬ男がアンの10年来の夫だと言い張り、我が物顔でソファに座ってここは自分の家などと言う。
今目の前で起こっていることは、果たして真実なのか。今日は何日か、今何時なのか。混濁する記憶の中アンソニーの「今」はどこにあるのか。
まるきり白紙の状態で見たい方は、ややネタバレになっている部分もあると思うのでここからは閲覧に注意してください。
この映画を見てまず最初に思い出したのは、両親とも見送った母親から聞いた話だ。遠く離れた両親がいよいよ夫婦揃ってホームに入ることになった際、母親はしばらく故郷に行き、ホーム入居を手伝った。慣れ親しんだ家から離れ、移った先は1LDKほどの部屋。入ってすぐ全ての部屋が見渡せるような簡易な作りだと言うのに、初めは2人とも夜中に起きたら迷子になる(トイレの場所がわからない)、新しい場所に慣れず気持ちが不安定になるなど生活が落ち着くまでに随分かかっていた。
祖母の体調があまり思わしくなくてホーム入居を決断したのだけれど、認知はさほど症状がなかったと思う。それでも入居してしばらく経つと、あれがないこれがない、と通ってくる家族に毎日訴えていたのだと聞いた。
介護は過酷であると聞くけれど、それは当事者になってみないと決してわからない。認知で体の自由も効かない老人に怒っても仕方がない、そんなふうに思っていても割り切れない毎日がいつ終わるとも知れず続くのかと、途方もない絶望が襲って当然かと思う。
認知症の現実、そう聞けば人は必ず「こちら側」のことを書く。介護する側がどんなにつらくて、やりきれない毎日を過ごすのか。それは決して他人事ではない。
それはもしかして介護する側の厳しい現実を少しでも理解するきっかけになるのかも知れない。
ただ、この映画は違う。
アンソニーの視点で混濁していく「現実」をアンソニーの目線で体感できるのだ。
朝、覚醒して始まるのは当然昨日から続いている人生。そして明日は今日の続きとなるべく眠りにつく。それがいつの間にかバラバラになって繋がらなくなったとしたら。
人は整合性を求めて、何とか現実に自分を合わせようと、自分に現実を合わせようともがくだろう。そして妥協点を見つけて「ああ、そうか。そうだった」と安心するだろう。うっかり忘れる、ぽっかり記憶が抜ける、そんなことは健常な意識にもよくあることで、たまたま今日はそれが重なっただけ。そんな風に必死で食らいつく現実など、どの程度持つだろうか。
老いとは諦めること。
必死ですがりついてきた、自分の人生の成功体験、誇り、そして愛する家族。その辻褄が合わなくなったとき、人はゆっくりと諦めていくのかも知れない。
いつか自分の家族がそうなったとき、もしかすると自分がそうなったとき、私は今日観た映画のことを思い出せるだろうか。この初めての感情はずんと心の奥に居座ったまま、しばらく取り除けそうもない。
この映画は監督が劇作家として書いた戯曲を映像化したもの。アンソニーが日に何度も行き来する、廊下の先にある扉。迷宮の入り口として何度も登場し、こちら側の意識も混乱させてくる。
監督はセットを組むときにいくつか出てくる場面を同じ部屋から作り出し、アンソニーの混乱を追体験できるようにしたとのこと。確かに、今自分がどこにいるのか、答えはわからない。
これは答えを求めているわけでもなく、出さなければならない問題でもないけれど、体験はしてみた方がいいと思う。
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