見出し画像

喉ちんこを触るイメージ

「1,000時間は勉強をしているのに、IELTSのスコアが一向に伸びません。私の勉強方法が悪いのでしょうか。」

このような相談を受けることが良くあります。

この回答に関しても、自分なりに答えがでているので参考までにノートにまとめておこうと思います。

成果(今回で言えばIELTSのスコア)は、以下の公式で反映されると私は考えています。

成果 = 練習の密度 × 練習の量 × 才能

練習の密度とは、簡単にいうと学習を単なる "作業" にしていないか、ということです。

言語運用は運動に近いスキルです。そのため、ただ何も考えずに黙々と練習を続けても、その作業効率が上昇するだけで実際のスキルとして定着しにくいです。

練習の量はそのままですね。昨今、「効率的に〜」や「時短で〜」といったフレーズが横行していますが、やはり量は大切です。

最後は才能。言語習得においては、主に音声再現のセンスを表していると思います。

密度・量・才能、これら3つの観点をそれぞれ1〜5で換算して、合計値が大きければ大きいほど早く成果を達成できると私は考えています。

大切なのは「0」はない、ということです。どんなに才能がなくても、継続して取り組んでいけば、いつかは必ず習得できる。それが言語だと私は思っています。

というのも、まさに私は言語の才能が限りなく0に近い。センスという点で言えば全くないのです。

私がオーストラリアで働いていた時、職場で出来た親友が中国出身でした。

基本的には英語でコミュニケーションが取れるので問題ないのですが、彼が他の中国人と中国語で話している時の疎外感。親友なのにどこか遠い存在のように感じる瞬間がよくありました。

次第に「彼と中国語で話したい」という思いが強くなり、職場を辞めて台湾に語学留学を行くことを決めました。

「漢字もある程度分かるし、3ヶ月もあれば何とかなる」と抱いていた当初の期待は見事に粉々に砕け散りました。中国語、発音が難しすぎる。

なんたって音痴ですから、イントネーションが上がるとか下がるとか。そんなことを説明されても全くできるようになりません。

最初の数ヶ月は中国語を話すのが本当に嫌で、英語でしかコミュニケーションが取れない日々が続きました。

せっかく語学を学びにきているのに、という思いもあり非常に惨めな気持ちになりました。

あまりにも中国語ができないので、Language Exchange(私が英語を教えて、代わりに中国語を教えてもらう)でマンツーマンで中国語を教わることを半年間続けました。

そこまでやって、ようやく少しだけ中国語を話せる気がしてきました。

その一歩を踏み出してからはスムーズ。こんな顔なので、中国語を少し話すだけで会話の種になりコミュニケーション量が日に日に増えていきました。

何が言いたいかというと、センス0の私でもやり方と練習量で中国語を習得できた。それが伝えたかったのです。

センスはあればあるに越したことはないですが、そこまで重要なファクターではないと思っています。

話を戻します。

「1,000時間も勉強して成果が出ない」ということ。才能は重要なファクターではないこと。これらから分かるのは、練習の "密度" が十分ではないということです。

練習の密度は以下の3つの要素で構成されていると思っています。

① 課題設定
② 学習内容の「自分事化」
③ 振り返り(又は他者からのフィードバック)

勉強を「作業」として脳死状態で行なっていると、上記の3つがごっそり抜け落ちていることになります。

この状態で "作業" を1,000時間続けたとしても、上達が見込めないのはなんとなくイメージが湧くと思います。

まず一番大切なのは「課題設定」です。つまり、自分のできないことを言語化する作業です。

高校生の時、私はサッカー部に所属していたのですが、同じ練習メニューでもただ単にこなしているか、そうでないかで上達のスピードに雲泥の差が生まれてました。

偉そうに言っていますが、私は前者です。元々は好きで始めたサッカーですが、中学を過ぎた頃から "義務" としてやっている感じが強くなったんですよね。

「できないこと」を「できる状態」にすることを積み上げていく。そうすると、間違える割合が確実に減っていき高いスコアが安定して出るようになります。

次に大切なことが、学んだ内容を「自分事」として理解し直すということ。咀嚼するというようなイメージが合っているかもしれません。

「中学生の頃の自分でも分かるように説明し直してみてください」

勉強した後はこんな風に伝えることが良くあります。これは「理解して実行する」ということができているかを確認することが目的です。

「なんとなく出来る」というものと「理解して出来る」ことは、同じ出来るでも再現性に大きな差があります。

「なんとなく」は感覚が先行した理解。つまり、感覚にフィットしたトピックであれば再現はできますが、自分の感性と合わないものにはその強みを活かすことができません。

昔、私の相方が英語の「R」の発音を指導していた時の話です。

彼が「舌先で喉ちんこを触るイメージで発音してください」と、指導していたのを聞いて目から鱗でした。

試しに「カー」という音を出しながら徐々に舌先を喉ちんこに移動させていくと、綺麗に「CAR」の発音になりました。

英語圏のフォニックス教材で、このように教えている教材は私の知る限りありません。彼は英語の発音を、日本人の文脈に合うように「自分事化」したのだと思います。

最後に大切なのは、振り返り。次の課題点や改善できるポイントを言語化する作業です。これは②の自分事化とも関連しているプロセスです。

スピーキングの後で「もっとこう伝えればよかった!」とか、自分の発話内容を見返して変な部分を客観的に認識することで、徐々に悪い点が改善されていきます。

客観的に認識するということは、学習者の視点を意識的にズラすということでもあります。

例えば自分が書いたライティングをルーブリック(評価表)に沿って、自己採点してみる。こうすると自然と「評価者」として自分の文章を見返すことができます。

「これは具体例がしっかりと深堀りできてないな」

とか、客観的にダメ出しをしているとその言葉はブーメランとなって帰ってきます。

そうすることで、次に自分がライティングをする時に「いかんいかん!」と改善するポイントに気づけるようになります。

成果 = 練習の密度 × 練習の量 × 才能

たまにでいいので、勉強した後に「密度は十分だったか?」と自問するだけでも1ヶ月後の成果に変化が現れてくるはずです。

ここまで偉そうなことを書いていますが、私も「密度が足りてない」と感じることが良くあります。

例えばブログの編集。最初は「勉強の手助けになれば!」と思って始めたブログですが、今では義務となり作業のように情報をまとめてしまうことがあります。

そんな脳死状態でやった仕事って達成感もないし、なんだか心にしこりが残るんですよね。もちろん文章の上達もない。

だから自分のブログの文字は誤字も脱字もあるし、見ていて本当に嫌になります。

IELTS・TOEFL・OET、どれも一筋縄ではいかないテストですが「できない」を「できる」にするプロセスを積み上げれば最後はできるようになります。

頑張ってください!私も頑張ります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?