トライアスロンを始める理由(週末日記#10)
トライアスロンを始める
トライアスロンとは
トライアスロンとは、スイム、バイク、ランの3種類の競技を順に行うスポーツである。めちゃめちゃきついやつじゃないのか、と思う人が多いと思うがオリンピックなどで行われる、いわゆるスタンダードディスタンス(標準距離)はそれほどでもない(スイム1.5km+バイク40km+ラン10km)。
アイアンマン(鉄人)レースという名がついているトライアスロンが多くの人が思い浮かぶそれだ。スイム3.8km・バイク180km・ラン42.195kmの合計約226kmを完走しなければならない。これが今の所、僕のトライアスロンをやることのゴールでもある。
なぜトライアスロンなのか
さて、なぜいきなりこのスポーツをすることになったのか経緯を書いておこう。
まず、僕はイギリスに来てから本格的に筋トレ(ボディービルディング)を始めた。そこから運動することで精神的及び肉体的な健康をある程度の水準に維持できることに気づき、2年間毎日ジムに通い続けた。
ボディービルディングを本格的にする人たちは大会に出場し、良い結果を残すことを目標にする傾向にある。それ以外の僕みたいな一般人は「自己満足」が唯一の継続のエネルギーだ。もちろんジムに行き、周りの人と比較し、僕/私の方が大きい、重い重量をあげられると感じ、それがエンジンになっている人も少なくないだろう。しかし2年間続けてみて、このような自己満足では得られないものがあると感じた。
それは”苦痛の先にある何か”だ。何か、と表現した理由は自分でもまだどう言語化すれば良いのかわからないし、経験できていないからだ。よく長距離ランナーやトライスリートはこの何かを”悟り”や”達成感”といった言葉で表す。
瞑想をしているとき、たまにすごく入り込める時がある。そこには何もなく、呼吸と感覚だけが残った不思議な空間だ。全ての感覚が研ぎ澄まされているようにも感じる。神経科学的に言うと、副交感神経が活発になっている時だ。サウナの”整った”と感じるあの瞬間も同じ原理だと思う。
無酸素運動と有酸素運動の差なのかどうなのかが不明だが、筋トレではその悟りにたどり着くことができないことに2年間で気づいた。というよりもそもそもそれを目的にしてやっていない。もちろん、トライアスロンを始めるからといって筋トレをやめることはないが。
少し話が逸れたが、僕が言わんとしていることは「苦しい状況にこそ学べることがある」と言うこと、それを己の体を使って体験してみたいということだ。その手段として、昔から挑戦してみたかったトライアスロンをやってみるわけだ。
目標の設定
トライアスロンはやってみたいと思って簡単にできるスポーツではないだろう。しかし、「思い立ったが吉日」が体に染み込んでいる僕は、すでに7月21日の群馬で開催される大会を申し込んだ。これで後戻りはできない。
僕は何かを継続するときに目標設定を大事にする。何事も習慣化されてしまうと怖いことに人は環境に適応し、目的を忘れ自動運転モードになってしまう。毎日英単語を覚えよう、と心に決めても目的がないと続いても半年くらいだろう。何もなしに初心をキープし続けるのは至難の業だ。
僕は周りにストイックだと言われることが多いが全くそうではない。誘惑に弱ければ、自分で縛った紐もすぐに解いてしまう。だから逃げることができない状況(大会、資格試験に申し込んだり、人に宣言したり)を作って継続することにしている。ストイックで何事も粛々とできる人には本当に尊敬する。
まずは7月にあるレースを完走すること。これを第一目標にしてその先にある「何か」を見つけるべく、淡々と続けてみようと思う。
ミニマル思考
物欲の沼
僕は一つの物事に興味を持ったら周りが見えなくなってしまうほどに熱中する。それは生活の効率を上げるための道具や方法を探す時も同じだ。
ある日、ランニングシューズを買おうと決めて、YouTubeからブログまであらゆる情報(価格、機能、耐久性、軽さ)を参考にして、”今の自分に最適なシューズ”を永遠と探してる時間があった。ふと、時計を見ると寝る時間。いくらネットサーフィンを続けても最適解が見つからなく呆れた僕はシャワーに入ることにした。我に返って、もう一度「なぜこの道具が欲しいのか」、「こんなに時間をかける価値があるのか」と思い返した。そこで僕は「物欲の沼」から抜け出すための真理に辿り着いた(面白いことに良いアイデアやひらめきが生まれるときはいつもシャワーの最中だ)。
情報をミニマイズする
それは情報を遮断することだ。物も人間関係も必要最低限のものにすれば、道具を使った効率性ではなく、本当に必要な時間の使い方ができることに気づいた。もっと詳しく説明しよう。
まず、この世界はすごいスピードで進化している、効率性をあげるための手段(通信速度の速いPC、タスクマネージメントアプリ、ガジェットetc)は把握できないほど存在する。もちろんそれらの中で最適解を見つけ出し(不可能だが)使うことができれば世界の誰よりも効率的な時間の使い方が可能だ。しかし、そんなことを追求していると、情報量が多いがために効率的になるためにしていることが最も非効率であるといった矛盾した行動をする羽目になるだろう。
文章で見るとそんなことはないと持っているかもしれないが、現実、ほとんどの人が日常生活の中で似たような行動をしていると思う。すべてのことを完璧にこなそうとしないでいい。本当に重要なものだけを見つめてその成長に全力を注ぐことが大事だ。
これができない原因は入ってくる情報が多すぎるからだ。情報があるとほとんどの人は比較をする。自分とあの人、自分の車とあの車、今持っている古いスマホと最新のスマホなど、キリがない。現状でも満足できているはずなのに、”隣の芝”を知ってしまうとなぜか人はそれと同等、あるいはそれよりも上昇しようと必死になってしまう。
そのために、物や人との関わりを最小限にして入ってくる情報を少なくすることが大事だ。情報を知ってから抑制しようとしても遅いだろう。
物と人間関係を極力少なくすると聞いたら、冷酷無情なイメージを持たれるがそんな尖ったことをいっているわけではない。本当にやりたいこと、成し遂げたいことだけをしましょう、ということだ。
例を挙げてみよう(具体例:その対策):
今ある物(家、車、ガジェット etc)で満足する努力をする:ものを購入するときに制約を作る(第三者の意見を聞く、理由を10個書くなど)。
行きたくない飲み会やデートを避ける:何も考えずに返事、約束をしない。
嫌な人と関わらない:自分の成長につながるか否かを見極める。つながらないと感じたら物理的な距離を置くことから始める。
デジタルデトックスをする:アプリを消す、通知をオフにする、一切触らない時間を定期的に作る。
どこにでもある自己啓発本の中に書かれてそうな例を挙げてみたが、こうやって例を挙げてみるとミニマル思考は意外と簡単にできそうではないだろうか。
終わりに(幸せの再定義)
こういった深い(?)ことに考えを巡らせる時、いつも行き着く先は「自分にとっての幸せとは何か」だ。結局は、ここの定義が曖昧、または本当に感じていることと違うと何かモヤモヤが発生するのだと思う。今回は、それが物欲や効率性といったことにあらわれた。
単純に考えると「効率的であることが幸せですか?」、「機能満載で高価な物をたくさん手に入れれたら幸せですか?」と聞いてみると良い。僕は寸分の迷いもなく首を横に振る。
最近は「死ぬまで(あるいは死んでも)、”幸せとは”なんて分からないんだろうなぁ」と思っているが、それでもそこに辿り着こうともがいている。不思議と、走りながら、サウナに入りながら、この文章を書きながら、このことについて考えている時は非常に楽しい。まさにこの過程こそがその”幸せ”なのかもしれない。
では。また次の記事で。