日本の子供の貧困に対する最近の雑感(週末日記#18)

5月24日に日本に帰国して三週間ほどが経とうとしている。僕は現在、大学を休学しており2025年9月までに日本に滞在する予定だ。滞在している間、主にやりたいことは日本の子供の貧困削減のために自分ができることをアクションに移すことだ。そのアクションによるインパクトが最大値になるように日々模索している。

帰国してからは、地元の児童養護施設という、社会的養護を必要とする子供たちが暮らす施設でボランティアをしている。加えて、経済的困窮や家庭的な事情により、塾に通えないこどもたちのためにオンライン学習塾を無償で提供している学生団体の運営にも携わることになった。

この記事では、それらの活動を通して最近感じている、子供の貧困についての雑感を記しておこうと思う。

日本の貧困問題や、教育に関心がある方のためになれば幸いだ。

“普通の生活”と“親からの愛情”の大切さ

児童養護施設での生活

児童養護施設には週2〜3回ほど通っている。まだ回数は少ないがある程度のところまでは子供との信頼関係も築けて、今まで見えなかった部分まで見えてきている、というのが最近感じていることだ。

児童養護施設での活動を始める前に二冊ほど施設に関する本を読んだ。その中で、子供に大人からの愛情を注いであげることが重要だと何度も書かれていたため活動を始める前からなんとなく認識はしていたが、「愛情」とははたして何か、と思った。

施設にはユニットと呼ばれる6人の子供たちが暮らす家がいくつかある。6人1組に対して、職員は(時と場合によるが)二人ほどである。加えて僕のようなボランティアが入ると3人になることも多々ある。

大人一人が二人の子供を見なければならない。年齢も3歳から18歳まで様々なので対応ももちろん違う。職員の負担は昔に比べればだいぶ良くなったみたいだが、子供に十分な愛情を注ぐためにはこれでも足りない。子供の世話をするだけならいいが、それ以外に事務作業もあれば、家事、学校との連絡(保護者会や授業参観など)などもすべて行わなければならない。働きながら二人の子供の面倒も見なければならないシングルマザーと状況は似ている。

そんな中で育つ子供たちを、親と暮らす子供たちと何一つ変わりなく育てていくのは容易ではない。

親以外の大人からの愛情

子供が健全に成長していくためには“親からの愛情“が必要不可欠だ。だが、生まれた家庭が(様々な理由で)恵まれなかった子供たちはこの愛情と言うものを十分にもらえずに育っていく。児童養護施設に暮らす子供たちは大人からの愛情はもらっているが、親と比べると十分とは言い切れないのが現実だ。加えて施設にいる子どもたちは虐待を受けた経験を持った子がほとんどで、大人への信頼も非常に低い。そのため彼、彼女らには一般的な家庭の子ども以上の愛情を注いであげる必要がある。

だか、施設に暮らす子供たちは、職員を「仕事として面倒を見てくれてる人」と認識しているため、本当の親からの愛情のようにはうまくいかない。これは仕方のないことであって施設の体制や運営が悪いだとか、そういう判断を下すのは野暮だろう。

職員が子供に愛情を注いであげようと日々頑張ってはいるものの、通常の家庭、本当の親からの愛情のようにはうまくいかない(職員さんたちがしていることが無意味だと言っているわけではない、むしろ子どもたちにとって大いに必要な存在である)。これは施設で暮らす以上変えることはできないと個人的には感じている。「施設で暮らしている」、「本当の親ではなく職員さんに育てられている」ということを認識しているので親の愛情には及ばないのは当然だろう。

児童養護施設で暮らす子以外にも里親と暮らす子供たちも存在する。あくまでも主観的な雑感でしかないが、親と一緒に暮らせない子どもたちは、できる限り幼い頃から、里親のもとで暮らすのが彼、彼女らにとっても良いのではないかと思っている。血のつながりはないとしても、周りの子どもたちと変わらない「普通の家庭」での「普通の生活」の中で育つことは、非常に重要だと思う。この場合、ある程度物事を理解できる歳になるまでは里親ということは隠すべきだとも感じるが、それによって引き起こされる問題も無視できないのは事実だ。

「頼れる、憧れる存在」を作ることは効果的か

ここからは自分の主観を書いているので、その旨ご了承いただきたい。

なりたいと思う人の存在

個人的な経験になるが、僕は憧れる存在、自分もあの人みたいになりたい、と思うことは人生を歩んで行く中で非常に大きなエンジンになると感じている。例えば、子どもの時はあの野球選手みないになりたい、お父さんみたいなかっこいい人になりたい、という志一つでどんなことも頑張れていたような気がする。これは僕一人だけの意見ではないと感じる。

志は、将来なりたい自分の姿、成し遂げたい事を想像して設定する。その未来の姿というのは現存している(もしくはしていた)人からの影響を受ける可能性が高いのではないかと感じる。なぜなら人の想像力上、実在しないものを目標に設定するのは難しいからだ。例えば、ドラゴンボールの孫悟空になりたい、と思って筋トレを頑張るよりも、大谷翔平を目指した方が現実的で明確な目標とビジョンを映し出せる、と言った具合だ。

社会的養護を必要とする子どもたちにしてあげられること

頼れる存在、目標にしたい存在との出会いや関係の構築を施設の子ども(または社会的養護を必要とするすべての子ども)たちに提供してあげることができれば、少なからず彼、彼女らの人生は前進するのではないか、というのが最近の雑感であり、自分にもしてあげられることなのではないかと思っていることである。ボランティアとして子供と関わっているのは、一人の大人としてそのような存在になってあげるという意図がある。

これはあくまでも主観的な雑感でしかないので、効果があるかどうかはわからない。だが施設で言うと、職員などの「内部の人」以外に、社会人や大学生、退職した大人などの「外部の人」との関係を構築する、または深い関係を築くことができなくても、いろんな経験を聞くことはポジティブな影響を与えることができると感じている。

具体的にいうと、自分がしている仕事や勉強についてのプレゼンを行ったり、職場体験や学校見学をしたり、子どもたちの目標や夢の幅を“横”に広げてあげることだ。これらの活動は実際にNPOや社団法人などが行っている。だか、もっと広げることができると感じているし、効果があるならそうするべきだ。

締め〜 “親ガチャ”、“国ガチャ”という言葉がない世界〜

日本だけにとどまらず、この世界は普遍的なことに左右されて幸不幸が決まることが多すぎる。例えば、親ガチャや国ガチャなどと言った言葉は、人生の半分を決定すると言っても過言ではない生まれてくる親や国を選ぶことができない、というのをガチャという言葉を使って表した言葉だ。これは真実であり、目を背けてはならないことだ。内戦が起きている国に生まれれば死亡率が高くなるのは当たり前で、毎日死と隣り合わせでは幸福度も下がるだろう。親も同じだ。収入や教育方法によって大いに子どもの人生は左右される。

僕は、この言葉が表している現実を変えるべきだと思っている。人のためというと綺麗事のように聞こえるが、自分は運良く恵まれただけで、恵まれない環境に生まれた可能性も大いにあったと思うと他人事のように感じられないからだ。

儒学でも、上の人は下の人を助け、下の人はお互いを助け合うことが重要だという教えがあるように、自分は恵まれた環境に生まれたのだから、運悪く恵まれなかった人たちを助けてあげるのは当然のように感じる。僕は親ガチャや国ガチャと言った言葉が通用しない世界の実現を志している。

僕が一生をかけてもできることなんて目に見えるものではないだろうが、「大河の一滴」という言葉が意味するように、どんな小さなことでも大きなことに繋がっていることを忘れずに志は常に高く持ちたい。

では、また次の記事で。

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