外国語を話すことと自己を曝け出すことについて
もし、外国語を話すことが僕の自己表現を助けるなら、僕は何度だってその特権を使いながら生きてたいと思う。
僕は大学に入ってから英語を本格的に勉強し始め、それから5年近くがたった今もまだその魅力に魅せられているのだが、ここで僕の意味する「魅力」とは何も「就活で有利になりそう」とか「キャリアの幅が広がるから」とかそんな下心に塗ってたかられた凡庸なものを意味してるのでは断固として、ない。(厨二病)
というのは冗談で、もちろん僕も初めは「英語話せたらモテるかな」とか「グローバルに使われるのは英語だしな」といった、言語学習の先にある甘い蜜を思い描いては涎を垂らしながら、英語習得への旅路を歩み出した。
初めは純粋な下心から始まったこの旅路だったが、歩みを進めるうちに、習得した先にある何かというより、英語という言語の特性そのものが僕を魅了するようになる。英語という言語はより感情をダイレクトに表現する言語である(とされている)から、感情を表に出すのが苦手だった僕に、より物事をストレートに表現するよう後押しし出したのだ。いわばもう一つの人格をインストールしたかのように、これまで20年近くかけて培ってきた「バロン・ナカタ」としてのアイデンティティに加えて新しい自分が生まれる可能性を示唆し始めた。この気づきは、人間関係に悩み続けた僕の人生の長いトンネルに一筋の光を差し込むような、そんな希望に溢れたものだった。
例えば、日本語で何かを好きだと伝えるのはとても難しい。「あなたの服素敵ですね」「あなたの髪型可愛いですね」なんて伝えたいと思おうもんなら、「セクハラみたいにならないかな」「キモいって思われないかな」なんていう懸念がいつも付きまとう。文面にしてみるだけでも、なんだか腹の底がウズウズして変な心地がしてくる。そしていざ意を決して伝えようとした時にはもう既にその子はそこにいない。でも英語ならそんな煩わしさなんてなくて、髪型が好きだと思ったらその場で「I love your hairstyle!」という言葉がごくも簡単に口をついてでる。こういうカジュアルさが僕は好きだ。
僕は、それまで人と距離を縮めることを極度に恐れてしまう節があった(し、今も少しはある)。近づいても近づいても最後まで密着することができない磁石のN極同志(S極同士も然り)のように、僕は他人の領域に入ること、他人に良くも悪くも影響を与えようとすることを恐れてきた。おそらく少年時代のトラウマとか、失敗を過度に恐れてしまう僕の完璧主義な面が影響しているんだろうと思うのだけれど。
僕は好意を持ってるけど相手は好意を持ってなかったらどうしよう。僕にとっての善意が相手にとっての迷惑に働いてしまったらどうしよう。
こういった煮え切らない考えが頭を回り出すと、もう止めることはできない。結局さっきと同じで、答えが出た時にはもう遅い。コンクリートでガチガチに固められた虚栄心の土壌の上に咲いた一輪の花のような、「どうせ人と仲良くなろうとも、最後は自分一人で生きていかなきゃいけないしな」という諦めにも似た悟りが僕を支配していた。
ただ忠告しておかないといけないのは、英語を習得したからといってこういった長年に渡って培ってきたマインドセットがすべてクリアされるわけではないし、僕は特別それを望んでいるわけでもない。純粋に英語という言語の上のみに成り立ってるのではなく、もしかすると「私は第二言語を話している」という自覚の上で成り立ってるアクションなのかもしれないとも思う。でも、理由はなんであれ英語を話している間は、Endlessにぐるぐると渦のように回り続ける懸念の中でなんとか活路を見出そうと、バタバタともがく必要なんてなくて、束の間の「自由」を手に入れられるなら、その時くらいはもっと単純な人間になってもっと単純に人と接してみてもいいんじゃないかなって最近思えた。
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