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 大正期・昭和初期に四度も来日し、数多くの日本の文化人と交流を持ったチェコの女性旅行家、小説家、翻訳家でもあるバルボラ・マルケータ・エリアーショヴァー(Barbora Markéta Eliášová, 1874~1957)の活躍およびその功績については、少なくとも筆者が知るかぎり、日本ではこれまでほとんど紹介されていない。現在のチェコでは、東南アジアのみならず、南アフリカやオーストラリアなどを歴遊した女性旅行家としてその名が知られている。しかし、知られているとはいえ、決して研究が盛んに行われているわけではなく、エリアーショヴァーの遍歴を簡略に紹介した幾つかのエッセーや小論文のほかに、本格的な研究、とくに日本における彼女の活躍に焦点を当てた研究は皆無に等しい。

 それでは、エリアーショヴァーとはどのような人物であり、どうして私たちはその活躍に注目すべきなのであろうか。

 記すまでもないが、エリアーショヴァーは日本を訪れた最初の女性旅行家ではない。一例をひくと、世界一周旅行を敢行し、帰国後に旅行記『「サンビーム号」での旅』 A Voyage in the Sunbeam(London: Longmans, Green, and co.,1878)を刊行し注目を集めたイギリスの女性旅行家アニー・ブラッシー(Annie Brassey, 1839~1887)は、エリアーショヴァーより35年も早く、1876年に日本を訪れている。(刊行後たちまちベストセラーとなり、矢継ぎ早に複数の外国語に翻訳されたブラッシーの旅行記をエリアーショヴァーが来日前に読み、感化された可能性が高い。)

 エリアーショヴァーは、日本を最初に訪れたチェコの旅行家でもない。近年日本にも紹介されている旅行家ヨゼフ・コジェンスキー(Josef Kořenský, 一八四七~ 一九三八) は、1893年に日本を訪れ、帰国後に『世界一周の旅』Cesta kolem světa (Praha: J. Otto, 1896-1902)という旅行記を刊行した。また、コジェンスキーの甥にあたり、20世紀前半のチェコで人気を集めたジャポニズム文学の代表的作家として知られるジョエ・フロウハ(Joe Hloucha, 1881~1957)もエリアーショヴァーより早く、1906年に来日している。

 数多くの旅行家たちがエリアーショヴァーより早く日本を訪れ、帰国後に旅行記その他の著書をもって日本文化を盛んに紹介していることは明らかである。それでは、エリアーショヴァーと他の旅行家たちはどのような点で異なるのだろうか。言い換えれば、旅行家としてのエリアーショヴァーの特色はどこにあるだろうか。

① 滞在期間 まず第一に、滞在期間が挙げられる。他の旅行家たちと異なり、エリアーショヴァーは四度も来日し、その都度比較的長い期間、日本に滞在している。最初に来日した時はおよそ一年(1912~1913)、2度目はおよそ1年半(1920~1921)、3度目(1923)と4度目(1929)は数か月日本で過ごしている。合計で3年以上も日本に滞在したエリアーショヴァーは、日本文化や日本人の生活を詳しく知る機会を持ったばかりではなく、様々な友好関係を築くこともできた。

② 日本語能力 アニー・ブラッシーをはじめ、日本を訪れる旅行家たちの多くは、滞在期間が短かったため日本語を覚える時間がなく、始終日本語と英語(若しくはその他の西洋語)のできる案内人に頼るしかなかった。一方、比較的長い期間を日本で過ごしたエリアーショヴァーは、日常会話で不自由がない程度には日本語を習得しており、読み書きもある程度できたと思われる。

③ 経済状況 イギリスの国会議員を夫に持つアニー・ブラッシーは高級ヨットで世界一周旅行を行い、各地で制約を受けることなく自由に行動ができるほどの経済的な余裕があった。一方、孤児として育ち、女学校の英語教師をつとめていたエリアーショヴァーは、初めて日本を訪れる際には、貯金と友人らが集めてくれた餞別を唯一の資金として旅の途に就いた。エリアーショヴァーには決して経済的な余裕があったわけではない。

④ 日本での求職 来日前のエリアーショヴァーの経済状況は、来日後の彼女の活動内容に決定的な影響を及ぼしたといえる。アニー・ブラッシーをはじめ、一九世紀後半と20世紀の初めに訪日した旅行家たちの多くは、名所旧跡を見学しながら日本文化に親しんだ。すなわち彼らはツーリストとして日本を眺めたわけだが、日本で職に就くことはまずなかった。一方、初めて日本を訪れたエリアーショヴァーは、来日して早々収入源を求めざるを得ない状況におかれ、知人の紹介で英語の講師をつとめることになった。また、1920年、2度目に来日した際、エリアーショヴァーはチェコスロヴァキア公使館の書記官をつとめている。

⑤ 日本の文化人との交流 当然のことだが、このような状況におかれたエリアーショヴァーの日本体験と、他の旅行家たちの日本体験とはずいぶん異質なものであった。日本を旅した旅行家たちはたいてい異文化という壁を超えることができず、あくまでも日本を〈外〉から眺めていたが、日本で生活したエリアーショヴァーは日本の文化に〈内〉から触れる機会に恵まれたと言えよう。あるいは、エリアーショヴァーのことを〈旅行家〉ではなく、寧ろ〈滞在者〉もしくは〈生活者〉と考えたほうが適切かもしれない。そして何よりも、このような独特な状況におかれたエリアーショヴァーが、同時代にさまざまな分野で活躍した日本の文化人と親密な交流を持ったということに注目すべきである。

(冒頭の写真は、エリアーショヴァーは1912~1913年、また1920年に泊まった、かつて神田に今城館という旅館)

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