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自己紹介

深層透視のルカです。
文章での発信は初めてなので軽く自己紹介をします。

今年32歳で、バツ2、
先日、3回目の結婚をしました。

基本情報:射手座、B型、1人っ子

趣味:製菓、切り花、美容、映画鑑賞、絵画、サブカルチャー全般

身長160cm、痩せ型、イエベ秋、
骨格ウェーブ、顔タイプソフトエレガント

苦手なもの:ユニットバス、お化け屋敷、ホラー映画、高圧的な異性、口論、マルチタスク

特技:占い、天気を晴れさせること

好きな食べ物:雪うさぎ(博多銘菓)、蜜柑、リストレットショットのカプチーノ


1.音大志望だった幼少期

私は1992年に北九州のごく平凡な家庭に産まれました。
12月のめずらしく雪の降る朝でした。

生後すぐ父の会社の都合で二年おきに転勤を繰り返す生活になりました。
産まれた日から、正確には母が妊娠していた段階から英語を聴かされていました。英語以外がTVから流れることはない家庭でした。ゲームやバラエティ番組のたぐいは禁止されていました。ビートルズは許可されていた、めずらしいものの一つで「エリナ・リグビー」の曲調が暗いなと感じていました。(孤独や死を扱った初のポップ・ソングとして評価されていたようです)

楽しみは料理と読書、油絵でした。
祖父が洋食屋と画廊、呉服店を経営していた影響です。
キッチンには立てても包丁には触れませんでした。
「女の子の手に傷が入るなどはしたない」という家庭でした。
「お嫁に行けなくなる」という理由でほんの少しでもアザができると
何時でも皮膚科に連れて行かれました。
戦時中に満州から引き揚げてきた曽祖母に強力な霊感があったのですが、このころに彼女は亡くなりました。
当時、数字や文字には鮮やかな色があって、信号機など日常すべての音を「ドレミ」の音階に変換することができました。
また、記憶が映像になっていて必要な部分を検索して取り出すことができました。
これが、共感覚や絶対音感という類のものだとは知りませんでした。
他人の気持ちが手に取るようにわかるようになったのも0-1歳からです。
不思議なことに未来でなにが起こるのか理解することができました。

3歳からピアノをはじめました。正確には、はじめさせられました。
八幡製鉄所で働く工員の父を持つ母は、私が音大に入り、ピアニストになることを望みました。
一日10時間ピアノの前に座り、お手洗い以外でピアノから離れることは禁止されていました。
土日は必ず家族旅行でした。冬は東北まで父の運転でスキーに行きました。人生で幸せだった頃です。

特に父が好きでした。神経質な母とは違って不器用ながら優しい人でした。サラリーマンで毎日23時過ぎまで働いているのに深夜に喘息の発作を起こしたら、病院まで運転してくれました。毎週交換日記をしていました。
アイスの最後の一口をくれるところも、全部が好きでした。
しばらくそんな生活が続きました。
ちょっとした裕福な家庭に生まれた認識を持ち、上品であることが価値だと勘違いしていました。

2.連帯保証人の発覚

6歳になってしばらくした日、学校から帰ると父親がマンションの戸口にもたれて嗚咽していました。大人の男の人は泣かないと思っていたのに、泣いているのは父で、包丁を持って怒っているのは母でした。
その日から私の人生がズレていきました。

父は2人兄弟の次男で、江戸時代から続く当時は御用商人だった有名な呉服店の家系に生まれました。
父の兄は灘高校卒、東大文一卒のキャリア官僚で今では天下りをして有名企業にいます。
父は二流とも言えない大学に、三浪して補欠でようやく合格しました。つまり、兄に比べて出来損ないだと強烈なコンプレックスを抱えていたのです。会社のお金を使い倒して遊んでいた祖母はそこに目をつけました。
二人のうち、判断力が弱く、法律に詳しくない息子に連帯保証人の契約書へ捺印させました。
父は母の印鑑を盗んで、母も合意したかのような契約が成立してしまいました。
その額は3億円です。
両親は今後、遅かれ早かれ自己破産をします。

母は人が変わったようになり、ピアノを売り払い、音楽を禁止しました。
あまりに不平等だと思い祖母に電話しました。
「兄弟の片方を連帯保証人にして息子を泣かせるのは間違っていませんか?」
サンタクロースをまだクラスメイトが信じている中で六法全書を引き、民法を読むのはあまりに孤独でした。子供らしく笑うことも、なにかに喜ぶことも無意味だと思いました。
楽しい演技をするようになりました。「こうしたら大人や周りの人が喜ぶだろうな」という振る舞いが上手くなりました。
父はキレやすくなり、刃物を振り回したり、家からたびたび追い出したり、危険運転を繰り返したり、毎晩、母親を殴るようになりました。
このころ近所の山に深夜いきなり捨てられたことがあります。
ドライブに行くと言われて車に乗り、いきなり山道に置き去りにされました。小心者の父親は30分とたたずに迎えにきましたが、どうせなら私が誘拐されるか死んで事件になればいいのにと悔しく思いました。
母は、「お父さんが仕事中に事故で死んじゃえばいいのにね。そうすれば『労災』でお金が入るし、保険金も入る。飛行機事故に遭えば賠償金も貰える」と父がいない時に繰り返しました。私は人が心から嫌になりました。

両親のどちらが悪いかは決めかねましたが、殴られていて力の弱い方の味方をしなくては、怪我をするのは母親です。
しぶしぶ母の側に立ち、喧嘩のたびに間に入って自分が殴られるようにしました。痛みは感じずに、仕方ないなと思いました。
現実が嫌いで本ばかり読むようになりました。
他人を信用なんてしないと決めました。
信用すると母のように騙されるからです。

3.ワイキキ飛び降り未遂事件

父は一応大企業に勤めていたので、夏休みにはハワイやバンコクなど海外に行っていましたが、今でも思い出すと困惑する事件を起こしました。
ワイキキのシェラトンホテルのベランダから飛び降り未遂を起こしたのです。
その日の夫婦喧嘩の原因はABCマートで購入したスパムおにぎりを父が入浴中に母が食べてしまったからです。
こうやって書くと意味不明ですが、とにかく父はパニックを起こし、飛び降りてやると暴れ、脅しました。私は何もできませんでした。
騒ぐ父を力で抑えることも、部屋から出て、新しいおにぎりを買いに行くことも、不可能だったのです。
この日から私は食べ物にこだわることをやめました。
なぜなら食べ物で人が飛び降りようとするのを見たからです。
そして、英語をより流暢に話せるように勉強しようと決めました。
私の前で家族が死のうとするのは嫌だからです。
論理に飛躍はあれど6,7歳の子どもからするとそのくらいしか考えられませんでした。

外食に行くと、両親が2番目に食べたかったものを頼むようにしました。
そうすれば、私の分から一口あげられるからです。回転寿司では必ず赤身を頼むようにしました。安上がりだと褒めてもらえるからです。
食べ物への歪んだ考え方は31歳まで続くことになります。
異性と二人で食事に行ってメニューを見ると咄嗟に「サラダを選ぶ話になったけどこの一番安いグリーンサラダはたぶん奢られる以上なんだか相手をなめている気がして選べない。1番高いベーコンポテトサラダを逆に申し訳なくて選べない。下から2番目のトマトサラダが無難に違いない」と15秒で考えを巡らせていました。

「何が食べたいですか?」 とデート前に聞かれると「この人はどのくらいお金をもっているんだろう? そもそも食事にいくらかける人なんだろう? お寿司やフレンチは生意気な女だと思われるし、相手を困らせるかもしれない。イタリアンはどうなるかわからない。とにかくわからないから、赤提灯が好きでも高級店が好きでもうまくはまる焼き鳥と送ろう」と考えていました。 

好きな食べ物を聞かれると他人のお財布事情が気になって、なるべく安いものを挙げるようになりました。
マカロンが好きでもマカロンは比較的高価なお菓子なので絶対に言いませんでした。普通に考えたら社会人の男性がマカロンくらい買えるとわかっていても難しいことでした。

自分の希望を言えないので、テストは解けても、食べたいものは言えませんでした。
つまらない人間だと思われたり、意志がないと勘違いされて、恋愛が完全に上手くいかなくなりました。

4.母親とルッキズム

肉親を褒めるのは非常識かもしれませんが、母はとんでもなく美人でした。ただ、顔の造形が整っているだけではなくて、雪のように白い肌、華奢な骨格、清潔感と「美」のすべてを体現したような人間でした。
若いころは地域で一番の美女だったと聞いても「そうだろうな」としか思えません。50代のいまでも「10歳年下のボーイフレンドがいる」と聞いてもまったく疑えません。
娘をつれてスーパーに出かけるだけでナンパされていました。

母は私を妊娠したせいで、愛していない男と結婚したので、私のことが憎く、邪魔で仕方なかったようです。
口癖は「アンタなんて産まなければ良かった」でした。
そこについて悲しいとは思わないですが「白雪姫」と呼ばれていたわりには「白雪姫の継母」のようです。
幼少期、家庭内では「猿」か「悪魔」と呼ばれました。
鼻が低かったことと、色白に生まれなかったこと、つむじが2つあったことが原因です。日常だったので、傷つきはしませんでした。
そんなもんだろうな。というのが正直な感想です。
「綺麗で賢くて可愛くて仕方ないでしょう」と第三者が両親に言うのを聞くたびに失笑しそうになります。
大事な一人娘どころか、いないほうが良かった邪魔者だからです。
親との関わりは著しく自己肯定感の高低に関わります。

母は、見た目が綺麗であることを大事にしていたので、物心ついたときからピンセットで眉毛を整えられていました。
5歳に満たない子供には強すぎる痛みで泣いて逃げても、引きずられて抜かれました。「綺麗になるには痛みが必要」という言葉はある意味で正しいと思います。
ですが、私に子供がもしいても同じことはしないでしょう。
法学部卒からすると虐待に近いと理解できるからです。

5.話せない関西弁

高学年から再び音楽を始めました。
転校生には金管楽器に空きがなく、人気のなかったドラムやピアノを弾きました。ドラムは目立つので好きではありませんでした。顔が見えないピアノが好きです。
中学に入ると、吹奏楽の強豪校だったので毎日ホルンを吹きました。吹奏楽の甲子園と呼ばれる普門館を目指していました。
愛媛県という蜜柑と温泉のある場所で、自然豊かな環境と、平和な人間関係で家庭外では楽しい3年間でした。
中学2年生から関西に引っ越すことになり生活が一変しました。
明記は避けますが、非常に治安の悪い地域に転校することになり、それまで話していた標準語を笑われ、「陰キャ」と蔑まれ、挨拶をしただけで「お嬢」と言われ、学校に行くのが面倒になりました。
休み時間は、女子トイレか図書室の本棚の間に隠れて過ごしました。

いじめられていたのか正直わかりません。
今でもいじめられた経験があるか、ないかの話題になると困ります。
2年間、親と塾以外で口を聞かなかったので違和感はありました。
あまりの寂しさにホルンを買ってもらいましたが、中音で裏打ちをする楽器なので一人で吹いてもなにが楽しいのかわからず孤独感を強めて行きました。

このころから大型書店で、恋愛指南本や心理学の専門書を読み漁るようになりました。当時の本屋にあったすべての本を暗記したといえます。
おかげで教科書的には世の中がわかった気分でした。
駅にあったドラッグストアの試供品で化粧を練習しました。
買わずに利用ばかりするのは本当はいけないことですが、お小遣いというものがなかったので仕方ないです。
アイプチを買ってもらえるような家庭ではなかったので、スティックのりと爪楊枝で二重を作りました。
癖がついたのか今では何もしなくても二重です。
洗濯バサミの間にティッシュを入れて、鼻を挟んで高くしようとしました。与えられないなら、どうにかして考えて、自分なりに工夫してやっていこうという姿勢が身につきました。

同じ塾の最難関クラスという灘や甲陽高校を目指すクラスの男の子が好きでした。
毎週のテストで3位までは名前が黒板に書かれるので、自分の苗字を覚えてほしくて徹夜で勉強しました。動機は不純でも名前と存在を知られるためにはそれしか思いつきませんでした。
おかげで英語に関しては塾内で1位を取るようになりました。
下の名前が一文字違いの美人がいたのですが、彼はその子と私の目の前で付き合いました。
「世の中は学力だけじゃなくて可愛くないと生き抜けない」と痛烈に思いました。

文武両道ではなく、「文美」両道を決めました。
負けず嫌いだったから親に何を言われても高い自己肯定感を持つことができた気がします。
殴られても、厳しい扱いを受けても、絶対に諦めるのは嫌でした。
過去を言い訳にして生きるくらいなら、圧倒的に可愛くて賢い人間になって見返してやりたいですし、私が幸せでいることが唯一にして一番の負のループから抜け出す方法だからです。

6.知能指数検査と母娘の決裂

14歳で知能検査を受けました。
偶然合格できた有名な進学塾では(差別的とも言われる)知能検査が希望者に対して行われていました。
「146」という数値を出して絶望しました。
母親は喜びましたが、知能指数が高く出たということは試験で良い点数を取っても二度と褒められず、当然だとみなされるからです。(人口の95%の知能指数は70〜130に収まるそうです。なお、年齢を重ねることで知能指数は変わるので現在はもっと低いでしょう)

いまでも実家に帰るたびにMENSAを受けるように言われますが、優秀である証明のための試験なんて心底どうでも良いので受けていません。
「猿」と呼んでいた娘をいきなり「天才」と呼び始めたことで母に失望しました。悪く言うなら一生そうしておいてほしかったです。
記憶力が高いのは良い面だけではありません。
辛い記憶もひとつだって消すことができなくなるからです。
クラブや繁華街、都心のような情報量の多すぎる場所では、負荷が強すぎて翌日寝込むことになります。
他人が何日の何時何分の発言したかを口論中に言って意味不明だと思われることもあります。

7.初恋と携帯電話破壊

16歳のときにはじめて彼氏ができました。
年齢的に普通どころか遅いくらいですが、母親はブルーカラー労働者を憎んでいるので、彼氏の実家が町工場であることに激怒し、携帯電話を真っ二つに折りました。
そこから、どんな人であれば母が満足するかを考えて恋人の人選を行うようになりました。
好きな人と付き合ったのはこのときと30歳を過ぎてからの二回だけです。

父親がグッドデザイン賞の審査員をしている社長の息子や大企業の役員の息子、医者の息子など、結婚をするわけでもないのに相手の身元を調べるようになりました。
そういった異性と交際してわかったことは相手が誰であれ私に彼氏ができるのが許せないということです。
真夜中にメールをしていないか、ドアを少しあけて除かれたり、
携帯電話の予測変換で交際相手の下の名前が出てきたことに激怒されたり、恋愛そのものに対してうんざりした気持ちになりました。
20歳までセックスはしないと決めていましたが、
性をタブー視する家庭で育ったので、親が怖くて、歪んだ価値観を持ちました。

8.朝帰り事件および下着管理

性的な問題が大きく露呈したのは大学生になってからです。
飲み会で終電を逃して始発で帰宅したところ(一人暮らしは禁止されていました)異性の家に行ったと誤解をされて、「エイズの女と同じ風呂には入りたくない」と母が叫びました。
さすがに差別的な発言かつやりすぎだと思い、マグカップを落として割りました。人生の中でも数少ない反抗でした。
性病どころかエイズという拡大解釈に「処女なのに何を言っているんだろう」という疑問を持ちました。

このころから下着の管理がはじまりました。
実家では、母親が着る服を管理するルールでしたが、わざと上下バラバラの下着を着るように指示されるようになりました。
今でもあまり下着は好きになれません。入浴している間に下着に汚れがないか確認されました。
私もバカではないので勝手に下着を買って、出かける前に駅のトイレで着替え、帰宅する前にまた着替えるようになりました。
飲み会に行かないようにバイト代を親に渡していたので、水商売や風俗の仕事をするようになりました。お金のためなら何でもしようと決めました。
感覚が麻痺しているので怖いと思ったことはないですが、
事件などに巻き込まれて刺されなくて良かったと思っています。

9.港区女子の憂鬱

新卒では総合商社の総合職として働きましたが、体力・精神的に限界を迎えて2年間休職しました。
後に20代の後半を「丸の内OL」をしながら港区で生活し、不健全・不誠実極まりない毎日を過ごしました。
過去の経験から、他人を決して信用せず、容姿に自信を持つようになったのでマッチングアプリを多用して、週7日のうち6日は異性のお金で食事をしていました。
「被写体」というアマチュアのカメラマンに撮影される副業もしていたので、基本給月18万、住宅手当なしのOLでもお金には困りませんでした。
毎日、違う人に会話をあわせて笑うのは、様々な職業の人を知れる以外の意味ではつまらないことでした。
何百人に会っても誰も好きになれませんでした。
容姿に優れていても、職業が良くても、いまいち興味を持てなかったです。終電近くなると嘘をついてタクシーに無理やり乗って帰宅しました。
性欲がないので、リスクを負うのはごめんでした。

虎ノ門に住んで、精神薬の量だけが増えていきました。
不注意が多く、秘書の仕事を実質クビになった帰り道に銀座八丁目を歩いているとホステスにスカウトされ、銀座で働くことになりました。
ヘアメイクなど引かれものは多かったですが、比較的楽しい仕事でした。

10.一回目の離婚

26歳で大企業に勤める男性と結婚しました。
「26歳だから結婚しようかな」と思ったのです。
相手を選んだ理由は、父親が有名企業の取締役だったからです。
両家顔合わせの席ではじめて母親が授かり婚をしていたことを知り、呆れました。
あれだけ「できちゃった結婚をする女はクズだ」と習ったにも関わらず自分がそうだったなんて滑稽でした。

当然、愛していなかったので2年半で離婚しました。
どうして離婚したのかわかりませんが、根本的に愛していなかったのと、
毎月のように帰省する義実家に馴染めなかったからです。
離婚直前に軽いトラブルがあり、首を締められて救急車で運ばれ、人生ではじめて本当に自殺未遂を起こしましたが、血縁者は誰ひとり入院先に来ませんでした。
なぜか私を心配した商社時代の先輩が駆けつけてくれました。
死にかけても誰も来なかったので、
親に愛されなかったと実感した出来事に違いはありません。

11.精神科での診断と二回目の離婚

29歳でベンチャー経営者と結婚しました。
例のごとく、愛していませんでした。
実家にいると「お前の家じゃないんだから出ていけ」と殴られるので、ひとまず安全に生活できる場所を切望していました。
当時、1人で住んでいた部屋の環境が悪すぎて、好きだと言われたのでこれでいいかと思いました。
良い人でしたが、異性として見ることはできませんでした。
年収で人を判断する姿勢が嫌でした。

あるとき仲の良い後輩に「気分の浮き沈みが多いのはうつ病ではなくて、躁鬱なのではないか」と言われて病院を紹介されました。
それまで、うつ病と不眠症だと思っていましたが、言われた病院で検査を受けました。
結果は、軽度の自閉症スペクトラム(ASD)、注意欠如・多動性(ADHD)でした。何かには当てはまると思っていたので驚きませんでした。

「どうせ貧乏で優しい男と再婚して今の暮らしが良かったと気付く」と別居を繰り返すようになったころに言われて、言葉の通りにはなりたくないので、自分で良い人生にしたいと思います。
結婚式もしました。
終始睨む父と、無言の母、誰も来ない親戚と気まずい時間でした。
帰宅したときにさっき渡した手紙と花束が乱雑に玄関に投げ捨てられていて
1ヶ月以上落ち込み続けましたが、今ではどうでもいいです。
両親は両親で私など気にせず自由に生きていれば良いのです。

先日、3回目の結婚をしました。
親が絶望で失神しそうな相手です。
条件ではなく私が勝手に愛しているだけです。
反応を想像すると今から愉快になります。
30年以上かけてようやく精神的支配に一矢報いました。

終わりに. 占い師としてのこれから

私は、親との不健全な関わりの中で、歪んだ価値観を持って生きてきました。
ASDやADHDには先天的な要素もありますが、後天的にも私の環境は恵まれたものではありませんでした。
ですが、他人の生きづらさを深く理解できるようになれたのです。
「良い子」をやめて自分勝手に生きることで、支配されず、
自分の意思で生きられるようになりました。
親に認められなくても私自身が今の自分を100%認めています。

この文章を読んで、「ひどい親だな」だとか「可哀想」という感想を少しでも持ったのであればそれは違います。
私は同情されるような人間ではありません。
環境に恵まれなくても、考え方や行動次第で面白くなるからです。
両親は変わっていますが、そういう人なだけです。
「毒親」という言葉は興味深いです。
良薬は口に苦し。
毒親も解毒する力があれば、薬なのです。

占い師として、霊的な能力に絶対の自信を持っています。
純粋に活かすだけではなく、現代特有の生きづらさに対して寄り添える鑑定士でありたいと願っています。
過去のすべてはありがたいことです。

ルカの鑑定では、どのような悩みであっても、
人に話せないことでも否定することなく
皆さんを受け止めています。いつでもご相談ください。

楽しく面白がって毎日を過ごしましょう。

最後に

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最後まで読んでいただき
ありがとうございました。

ルカ


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