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あまりにメンタルが不調な時

メンタルの調子には波がある。
1月にすごく大きな下降の波が来た。

「どうもこれはいつもの波と違う。すごく大きいぞ」
と思った理由は、
・病院で薬を処方しらった方がいいんじゃないかと思うほど、
 毎日気分が落ち込んで焦燥感に駆られていたこと
・希死念慮が強く出たこと

きっかけは多分家族のことでの悩みだった。
それもあって、すごく信頼して何でも相談している姉にもそのことを言えなかった。
家族のことを家族に話すのは抵抗があったし、心配をかけてしまうと思った。

じゃあ、普段から通っている自助会はどうかというと、
自助会に行くようになって4年、回復プログラムを始めて3年になることで、
「こんな初期の時のような悩みで苦しんでいるなんて恥ずかしい」
という気持ちがどこかにあってブレーキをかけていた。

家族以外なら話せるのかと言えば、それもできなかった。
なんでだろう。
心は嵐のように風が吹きすさんで、にっちもさっちもいかなくなっているのに、口に出してしまうと「苦しみが現実になってしまう」気がしてできなかった。
口に出さなくてもすでに苦しさは実際に存在しているのに、
口に出さないことで現実を否定できるわけないのに、
なぜか話すということはとてもできないことだった。

ほんとーに、少しだけ、少しだけその波を脱した今思うことは、
「死にたいほど苦しい」というのは大切なSOSで、
そういう時ほど誰かに相談するべきなのに、
私はその思いを「恥ずかしい」と思っていたみたいだ。

どうして「死にたいほど苦しい」というのは恥ずかしいんだろう。
自分の痛みを大きな言葉で見せびらかしているように感じるんだろうか。

TVなどで、いじめを受けている子どもが大人に相談しないのは
「いじめを受けていることを話すことが恥ずかしいから」だと聞く。
誰にも相談せずに自死を選ぶ人がいて、周囲は
「相談してほしかった」「どうして話してくれなかったのか」と嘆く。

これまではそういうニュースを見ている時に、
「その人達がSOSが出せたらどれだけよかっただろう」
「恥ずかしいことなんて何もないのに」
と思っていた。

でも今回
「死にたいほど苦しい」
ということをなぜか私は言えなかった。

こんな小さなこと(きっかけ)でそこまで思う自分を恥ずかしいと思ったのかな。
「死にたいほど」
って言葉が大きいから、大げさな気がして恥ずかしかったのかな。


今回話の流れもあって、自分のその苦しさを姉に話すことになった。
そしたら、涙が止まらなくて、胸が痛くて、
「あー、私苦しかったんだ」とやっと正面から認められた気がした。
それまでは、認めているようで認めてなくて、ど真ん中から見るんじゃなくて、少し目をそらしながら見ていたと思う。
それは苦しさに飲み込まれないようにする自己防衛なんだろうけど、
でも結局それではラクにならなかった。
正面から見つめること、誰かに話すこと、
それが必要だった。

姉は「自助会でどんどん話すといいよ」って言ってくれた。
苦しいことほど話した方がいいって言われている。
私は
「もう繋がって4年だから」
とか考えて、泥臭く
「どうしようもなく辛くて苦しい」
「人からしたらちっぽけなことかもしれないけど、自分にとっては死にたいほど苦しい」
と言えなかった。

明日の朝も自助がある。
恥ずかしくて言えなかった自分ごと、
話そうと思う。


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