僕のファミリーヒストリー vol.1:父の本籍地に行ってみた
僕の氏は「浅香保」だが、この氏は、じつは父の代で改名されている。
そのことを知ったのは、僕が27歳のとき。今から31年前の、父が亡くなる前後のころのことだ。
母と母の姉妹が、父のことを「ザマ」と呼んでいて、そのときは父のあだ名か何かなのかと思っていたのだが、前後の文脈から、かつては「ザマ」という氏だったのか?と思うようになり、母・敬子に聞くと、ちゃんとは知らんけど、結婚前に父は改名したって言うてた、と。
母がなんでちゃんと知らんのか不思議でならないが、さしたる興味もなく、知らないとのこと。
父はすでに意識が混濁しており、事情をきちんと聞けるような状態ではなかった。その後、父は享年59歳という、31年前の当時でも短い部類に入るだろう生涯を終えた。
それ以降、僕は母と義絶してきたので、氏の改名の件に目を向けることなく、僕は僕の人生を生きてきた。
一昨年、母が倒れたのを機に、仲が少しは雪解けムードになり、改名のことにも、少しは目を向けるようになった。
が、結婚前のことで母はほとんどなにも知らず、改名の件は父に聞かされるままに承知したきたそうだ。特に疑問も持たなかったのだとか。
一方で、父の親類関係はほとんどいない。父の親類となると、僕も母も、祖母の家系の本家くらいしか付き合いがない。そもそも広島県府中市で、物理的な距離も離れている。
そういう状況のなか、母も82歳となった。元気とはいえ、いつぽっくり行くかもしれない。
なので、氏の改名も含めて、自分のルーツを辿れるのも、そんなに時間が残っていないのだなと思い、ルーツ探しをすることにした。
まず最初、父・秀行の戸籍をとってみた。
父の戸籍を取ると、本籍が「神戸市兵庫区塚本通三丁目十番地」だと分かった。
僕の知っている父は、満州のハルピンで生まれ、終戦直前に祖母方の広島に引き取られ、高校卒業後に上京して大学に行き、大学を中退後、関西(大阪か神戸)で就職(あるいは仕事をはじめた)し、大阪で母と結婚し、新聞社で虎バンをしていたので、その後は甲子園に住み、のちに僕が出生した、というものだ。
大阪や西宮や広島県府中市が本籍地になっていそうなものだが、いずれでもなく、神戸市兵庫区だった。さてこれいかに?
兵庫区役所へ行き、父の戸籍を取ると、以下のことが分かった。
・本籍地「神戸市兵庫区塚本通三丁目十番地」は旧住所なので現在の場所はピンポイントでは分からない(これは法務局に聞けばわかるだろう)
・父はやはり、改名をしていた。昭和41年1月7日、氏「座馬」を「浅香保」とする変更届を出している。
「座馬」の「座」は、左の「人」を「口」と書き、見たこともない旧字体で、名字検索をかけると、岐阜県に160人いるようだ。全国には270人いると書かれている。
養子縁組等の記載がないので、家庭裁判所に氏の変更の申立てをしたのだろう。しかし、どのような理由で氏の変更を申立てたのか、それは家庭裁判所(神戸家裁か?)に聞くしかないが、昨今、裁判所は凶悪犯罪ですら10年で裁判記録を破棄しているので、60年近く前の記録が残っている可能性はかなり低いだろう。
昭和41年1月7日 改名届出
昭和41年1月11日 婚姻届出、妻・敬子と結婚
昭和41年1月17日 ワシ、出生
戸籍にある記載事項を見ると、慌ただしくいろんな出来事がある。これはデキ婚ですな。
僕の出産予定が間近に迫ったところで、慌ただしく結婚し、そのために慌ただしく改名の届出をしている(それ以前には改名の申立を家裁にしている)。
もし、「座馬」の名前がイヤだったのなら、婿養子に入り、母の姓である「阪井」を名乗るのが手っ取り早い。短期間にバタバタとしているのだから、婿養子に入るのが一番の近道だ。
でも父はそれをせず、難易度の高い、裁判所に改名を申立るということをしている。まず、それが解せない。
それに、「浅香保」という、うち以外に聞いたことのない超レアな名字はどこから出てきたのか?
改名理由と「浅香保」の名前の由来。
知りたいのはこの2点だが、調べるといろいろと周辺のことなど分かってきた。
少なくとも、僕の両親はデキ婚で結婚し、バタバタと慌ただしく手続きをこなして結婚したのだということが分かってきた。
さて、父の本籍が置かれていた「神戸市兵庫区塚本通三丁目十番地」とは、どんなところなのだろう?
行って新しい事実が分かるとも思っていなかったが、行かないとなにもはじまらないと思い、行ってみた。
阪神電車「新開地」駅で降り、駅前の商店街を外れた西の住宅街が、本籍の指しているエリアだ(現在における正確な住所は、法務局に聞かないと分からない)。
新開地といえば、アートビレッジセンターがあり、上方落語の定席「喜楽館」があるところだ。むかしは「西の浅草、東の新開地」と呼ばれたほど国内有数の歓楽地だったところが、新開地だ。
しかし、新開地駅前の商店街から少し外れた塚本通は静かな住宅街で、人がほとんど歩いていない。
日曜日ということもあってか、点在している飲食店も開いていない。
真言宗の「清林寺」、同じく真言宗の「極楽寺」がある。
日本イエスキリスト教団の物件(教会と児童館)があり、天理教の分教会があり、狭いエリアの中に、いろんな宗教の施設がひしめいている、ちょっと不思議なエリアだ。
隣のエリアには、中学校があり、児童公園がある。
マンションは少ししかなく、一戸建てが多い。隣のエリアにあるミワボシはディスプレイの会社だ。
都心でもなく田舎でもなく地方都市でもなくサバービアな郊外でもない。ダウンタウンには違いないが、少し静かな、ちょっと不思議な場所だ。
歩いているうち、なんとなく、こういう場所が父の本籍地なのか、ということは肌で感じることができた。
目立った新事実もなかったけれども、おそらく、父はこんな場所で新社会人時代を過ごしたのだと思われる。ここで、仕事に邁進し、願わくば充実した日々を過ごし、大阪で母と出会い、明るい未来を見ていたのだろうと思う。
おそらく、すでにスポーツ新聞社で虎バンをしていただろう。
しばらくウロウロしていると、黄黒の阪神カラーがペイントされたお店が目に飛び込んできた。
「村山実の魂を継ぐ!虎キチ専門店 Tigers Bar Eleven」という、虎キチの溜まり場になっていそうな店だ。
なんと!
僕が生まれたとき、出産祝いの乳母車をくれたのは、阪神タイガースの村山実なのだ。
その話を何度も聞かされてきたし、実際に村山は我が家に遊びにも来ていた。
店は閉まっていたが、これも何かの縁だと思い、ドアをノックした。中にはマスターがいて、事情、というか僕の身の上話を聞いてもらった。
突然の珍客にマスターは笑顔で迎えてくれて、僕は父の話をし、マスターは毎年沖縄キャンプに行って全選手のサインボールをもらってくるほどの入れ込みような話も聞き、盛り上がりもしたのだが、もちろん、父の暮らしぶりの手掛かりになるようなものは、なにひとつなかった。
マスターもじつは、大阪育ちの人だった。
ちなみに60年前だと、この店が入っているマンションが建ったときくらいだそうだ。
父に結びつくものは何もなかったが、父が虎バンをしていた縁で、僕が生まれたとき、村山実は乳母車を出産祝いにプレゼントしてくれたのだ。
よりによってその村山実の名前を冠したお店が、父の本籍地のあるエリアで営業しているという、なんとも不思議な縁。
なんとも不思議な縁だなぁ。
新開地の商店街に戻って、上方落語の定席「喜楽館」の隣の喫茶店「歌舞伎」に入った。
年季の入った店構えで、きっと地の人がたむろしてそうな店だとアタリをつけてのこと。ビンゴだった。
店のママさんをつかまえて話をしていると、以前の店の写真が飾ってあるのに気がつき、あれは?と聞いてみた。
するとママさんは、阪神淡路大震災で倒壊する前のお店の写真だと教えてくれた。
ああ、そうか。このあたりも、震災でかなり深刻な被害を受けたところだったのだ。僕自身が阪神淡路大震災に浅からぬ因縁があるのに、そのことに想いを馳せることができずにいたことを恥じた。
父の本籍地である「神戸市兵庫区塚本通三丁目十番地」も、震災で深刻なダメージを受けた。多くの建物が倒壊し、焼失した。
阪神淡路大震災は、平成7年に起こった。
父は、平成5年に亡くなったので、阪神淡路大震災を知らない。
今見る風景のほとんどは、父が見ていない、知らない風景だ。
自身のルーツを探るのは、亡き父との対話だな。
改名から僕の出生までのバタバタした時間のことを、想像してみる。
そんな時間を過ごした場所は、すっかり風景が変わってしまったのだとしても。
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