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間違いであっても尊重しなきゃいけないのがルール

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このブログでは、2019年7月にうつ病を発症し、それをきっかけに同年12月からブログを始めて、それ以降、700日以上毎日ブログ更新してきた、しがないサラリーマン弁護士である僕が、日々考えていることを綴っています。

毎日ご覧くださってありがとうございます。本当に励みになっています。

【 今日のトピック:相手を尊重する 】

「信教の自由」って聞いたことある方が多いと思います。

日本国憲法にも、「信教の自由」が規定されています。

「第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」

「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」というのは、ざっくり言えば、「どんな宗教を信仰してもいいですよ。国家が弾圧することはありませんよ。」という意味です。

オウム真理教は、国家転覆を企んでいて、実際に国家転覆を図ろうとしましたが、これは、国家転覆を企む宗教を信仰していることが悪いのではなく、坂本弁護士一家殺害事件や地下鉄サリン事件などの犯罪行為に至ったことが悪いのであって、宗教や信仰それ自体が罰せられてはいません。

もちろん、坂本弁護士一家殺害事件や地下鉄サリン事件の背景に、オウム真理教という宗教に対する信仰、そして、オウム真理教の創始者である麻原彰晃(松本智津夫)による洗脳があったことは間違いなく、ここを抜きにして坂本弁護士一家殺害事件や地下鉄サリン事件を説明することはできません。

しかし、オウム真理教という宗教自体を日本という国家が罰したわけではありません。現在でも、「アレフ」という宗教団体がオウム真理教を引き継いでいますが、アレフ信仰を国家が罰してはいません。

あれだけの残虐な犯罪行為に及んだ信仰であっても、信仰自体はオーケーなんです。これが「信教の自由」です。

「信教の自由」は、国家に対して、「信仰を邪魔しないで(=弾圧しないで)」と主張できる権利ですが、これは、対国家だけでなく、対民間人に対しても主張できます。

そもそも、リベラルな現代社会は、「私もあなたを邪魔しないから、あなたも私を邪魔しないで」というルールで成り立っています。

お互いに邪魔しないのが、現代社会の大前提です。

(ただ、誤解してほしくないのは、話し合いの余地がなくなったわけではありません。話し合って、お互いに納得して1つの結論に至ることができるのは、人間の本当に素晴らしい能力です。この能力を生かさないまま、ただただ言い合うのは、人間ではなくサルです。話し合った結果、どうしても譲れない場合もあるでしょうが、話し合いの余地があるかどうかさえ確認しないまま、「お互いを尊重するのがルールだから」と、知ったような顔をして話し合いにすら臨まないのは、あまりにも幼稚です。子どもじゃないんだから、話し合って歩み寄れる余地はあるはずです。)

この「お互いに邪魔しない」ルールのもとでは、どれだけ間違った考えや行動であっても、それを妨害してはなりません。

妨害できるのは、それが犯罪に該当する場合だけです。

だから、オウム真理教も、信仰は妨害できないけれども、信仰が行動化した結果犯罪に至ってしまったら、処罰できます。

国家が犯罪を処罰できるのと同じように、「犯罪しないで」と言い返すことができますし、犯罪から被害を受けた場合は損害賠償を請求することができます。

しかし、犯罪に至らないのであれば、どれだけ間違っていても、尊重しなきゃいけません。

例えば、エホバの証人を信仰する人たちは、輸血すれば命が助かるのをわかっていても輸血を拒否しますが、その考えも尊重しなきゃいけません。

命が助かるのであれば、輸血しちゃえばいいはずで、それは「間違っている」ように思えますが、しかし、エホバの証人にとっては、輸血して生きながらえることが「間違い」なのです。

そうです、ここがポイントで、自分にとって「間違い」に思えるものが、他の人にとっては「正しい」かもしれなくて、こういった多様性を認めるからこそ、「お互いに邪魔しない」がルールになります。

多様性を認めない社会における、グロテスクな歴史(宗教戦争における殺戮や、共産主義社会での粛清三昧など)を反省して、多様性を認めるべきというルールが出来上がりました。

それを「リベラルな社会」と呼びます。

いろいろ書いてきましたが、こういったリベラルな社会だと、自分の間違いを訂正できるのは自分しかいない、ということになります。

そうすると、自分が間違って考えを訂正しないまま損したとしても、それは自分で引き受けるほかありません。

例えば、「貯金した方がいい」という考えを訂正しないまま、貯蓄を増やしてきた結果、円の価値が暴落し、円建ての資産しか持たなかったことで、資産が紙くずになってしまった、ということが仮に起きた場合、その損害は自分で引き受けるほかありません。

「貯金した方がいい」という考えが間違っていたわけですが、間違っていたとしても、貯金することは犯罪ではないので、誰からも是正されることはありません。

何が正しいかを決めるのは本当に難しいですが、しかし、間違った選択について、誰からも教えてもらえません。

もちろん、教えを請うことはできますし、話し合ってもいいんですが、最終的にどうするかは自分次第です。

うーん、これを「自己責任社会」と呼ぶんでしょうが、その結果、何も考えずに生き続ける人は、損し続けてしまうでしょう。

もちろん、いろいろと考えても損しちゃうこともあると思いますが、しかし、何も考えずに、自分がどうして損したのか、あるいは、損したことにすら気づかないよりはマシだと思います。

リベラル+知識社会は、「お互いに邪魔しない」というルールが前提となり、「間違いも自分で引き受ける」という自己責任原則が導かれます。

僕としては、だからこそ、誰かとの話し合いが必要だと思っています。残酷な社会に必要なのは、人とのつながりです。信頼関係です。

社会のルールを理解して、その中で幸せに生きるにはどうすればいいか。それをこれからも引き続き考えていこうと思います。

それではまた明日!・・・↓

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