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善意とよく似て非なるもの

※これは自分への戒めの記事でもあります。

善意とよく似て非なるもので、
人のためと言いながら
実は偽善や保身から無理して行動しているというものがあると思う。

一見良いことをしているように見えるんだけど、
動機が純粋でなく、
実は見返りや賞賛を求めていたり、
根底に恐れがあるため、重たいエネルギーを纏う。

それは多分、
自分で自分を肯定してあげられないことからくる
欠乏感等から、
誰かのためという名目で尽くすことで、
自分の価値を見いだそうとしているのだと思う。

そして、
キャパを超えるようなものや、
理不尽や無理なものは、
きちんと自分の口から拒絶することが必要なのに、

それが出来ず、
自分のキャパを超えても尽くし続け、
溜まって行き場のなくなったストレスを何かにぶつけるという結果になるのだと思う。
(本当に相手のことを思って見返り求めず行動する人は、何かに当たったりはしない。)

誰かのために行動することは、素晴らしいことだ。

でも、無理なことや理不尽なことに対して、
相手の顔色ばかり気にしてきちんと嫌だと言い出せないことは、果たして本当に良いことだと言えるのだろうか。

それを、自分の挑戦だとか、成長だと本気で前向きに捉えられる人なら良いけれど、

結局、自分の中で処理できなくなって、
自分より弱い誰かや甘えられる誰かに当たるのなら、むしろ堂々と何もしない人の方が良いのではないかと私は思う。


他人に自分の全てを察しろというのは無理だ。

自分のキャパを自分で理解し、
ちゃんと自分の口で、
これは無理で出来ないと伝えること、
自分は今辛いのだと伝えることは意外と大切だと思う。

影でグチグチと言ったり、弱いものに当たるのではなく、ちゃんと当事者に言う必要があるのだと思う。

でないと、周りは好きでやってると思ってしまうだろう。

キャパの大きさは人によって違うし、そういうことが生き甲斐で好きな人もいる。

私自身も「出来ない」が言いづらい。

堂々と「出来ない」が言える人が非難されているのを見ると、ちゃんと自分のキャパを理解し、伝えられるって、実は結構難しいし、すごいことだよな、って思う。

場合によっては、仕事なら出来ない人だと思われるリスクがあるし、恋人や友人なら嫌われて、縁が切れてしまう危険もあるだろう。

でも、それを恐れて言えないのは自分が可愛いからだし、自分を守りたいからだ。

相手のためではない。
(怠けてやらないとか、意地悪でしないとかは別です。自分の限界を超えてまで、自分を犠牲にする場合においての話。)

ちゃんと始めから、
自分の口で直接相手に「出来ない」と言えれば、
相手も、出来ないものとして動く。
(もし、皆が出来ないようなことなら、それは仕組みとか根本から変える必要のあること。
別の話し合いが必要だ。)

それを、変なプライドや見栄で、出来る振りをすると、相手は出来る体で接してくる。

相手のためと言いながら、
本当は自分がガッカリされたくないからや、
嫌な顔をされたくないという理由から、
なんでも、ハイハイとやり続けていれば、
この人には甘えても良いんだと勘違いしてぞんざいな扱いをしてくる人も出てくる。

私の経験上、特に異性の扱いに慣れている男性(もしくは女性)はそういう部分につけこむのが上手な人が多い。

「頼りになるなあ」とか、
「さすが」、とか、
「あなたがいないと困る」
「あなたがいなくなったら死んじゃう」等と、
煽てあげて、

相手が何でもやってくれるの良いことに、無理難題も押し付けてくるようになる。

仕事なら、飲み会などでは、その人のことを皆の前で大げさに持ち上げたり、誉めたりする。

自尊心低い人は、そういう言葉に乗せられやすい。
(まさに私みたいな人のことだ)


でもそれは、本当にその人尊敬しているわけではなくて、利用したいだけ。

そうして、変な関係性が出来あがってしまうと、
とたんに無理難題も当たり前のように、
ぞんざいに押し付けてくるようになり、
自分で自分の首を締めることになる。

最初の段階で、きちんと出来ないことや、
無理なことを拒否することが出来る人は、
実は誠実な人なのだと思う。

その場しのぎや、取り繕いで、適当に引き受けない強さと賢さを持っている。

後になって、誰かに当たったり、
グチグチ言うくらいなら、
最初から甘い言葉に惑わされないこと。

高い評価を得たいとか、
好かれたいとか、
尊敬されたいとか、
変な下心で行動しないこと。

本当の善意からの行動は、
相手の好き勝手な言動を許容することではない。

長年仕事をしてきて、
大事だなことだな、と思うことの1つである。

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