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行けなかった場所

ずっしりと重たい雨が空から降りてくる。

私は、ずっと「あの人たち」の仲間になりたくて、
「あの人たち」と同じステージに立ちたくて、
一生懸命自分なりに努力したけれど、

でも、やっぱり「あの人たち」の仲間にはなれなかった。

「あの人たち」は、特定の誰かではない。
もちろん、宗教的なそれでもない。

上手く言葉に出来ないのだけれど、
私みたいにいちいち立ち止まることなく、

明るくパワフルに社会を回し、
社会に溶け込んでいる人たちと言えば良いだろうか。

阿吽の呼吸で他者と繋がって、
皆で協力して、楽しく過ごすが出来る人たちって、
言えば良いだろうか。

言葉にすると、
ものすごく陳腐で、
そういうことが言いたいんじゃないのにって、
感じになっちゃうな。

だって、私が思う「あの人たち」だって、
悩むこともあるし、多分自分はひとりぼっちだと思うこともあると思うから。

でも、私が言いたいのはそういうことじゃなくて、

例えば、学校のクラス替えで、
新しいクラスになったとき、
時間がかかったとしても、
ちゃんと皆の中の一員と認めてもらえるタイプの人たちってこと。

最後まで、分かり合えなくて、
浮かないってこと。

群衆になれるってこと。
ちゃんと皆の中の1人だと自分を受け入れられる人たちのこと。
愛と思いやりと常識を持って。

揶揄してる訳じゃない、憧れてるんだ。

ずっとそっち側に行きたいんだから。


そういう淋しい気持ちを思い出すのは、

自然に囲まれた田舎の祖母の家で、
朝目覚めたときに、聴こえた鳥の声を思い出した時や、

従姉の家の猫たちが、
まだ皆寝静まっている家の中を、
ゴソゴソと歩き回るのを思い出した時や、

小学生低学年の時、友達の家にお泊まりして、
一緒にカレーを作って、
夜、堂本剛主演の金田一少年の事件簿を観たことを思い出した時とか、

妹の友達の家で、
何人かで、スクリーンで「ネバーエンディング・ストーリー」を観た時を思い出した時とか、
(家にスクリーンがある家だった!)

まだ、周りと自分の世界の境界線が曖昧で、
自分もあっち側に行けると思っていた頃を、
思い出す時なんだ。

世界との「分離」ではなく、
「統合」を感じた時なのかもしれない。


そういうもの思い出す時、
私は「彼ら」のいる場所にとどまることが出来なかったことを思い知る。

彼らの一部になれなかったことを、
いつも最後には分離してしまうことを。


居心地が良かったはずのに、
どこか自分がよそ者みたいで、
居心地が悪かったこととか。


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